↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
13/13

第13話 お忍びの領主と特産品の相談

アルデバラン伯爵領に、長く厳しい冬の終わりを告げる春の気配が漂い始めていました。

雪解け水が水路の勢いを増し、街の市場には、冬の間は姿を消していた色鮮やかな春の青菜や、香りの良い山菜が少しずつ並び始めています。

行商人のカイルが、小糸の「節約の知恵」から生まれた端肉の肉味噌と肉団子で、王都での絶体絶命のピンチを見事に大逆転させてから数週間。

小料理屋「こいと」の評判は、商人や職人たちの口コミによって、アルデバラン伯爵領の隅々にまで浸透していました。


「『こいと』のおかみさんは、ただ料理が美味いだけじゃない。どんな悩み事も、魔法みたいな知恵で解決してくれるんだ」

「ああ、喧嘩の仲裁から、お肉の保存、商売のピンチまで、なんだってスッキリさせてくれる。まさに、この街の裏の守り神みたいな人だよ」


そんな噂が街中を飛び交うようになったある日の夕暮れ。

春の柔らかな風が、藍色の暖簾を心地よく揺らしている頃でした。


「いらっしゃいませ。どうぞ、お好きな席へ」

厨房の中央に立つ小糸が柔らかな声で迎えると、暖簾をくぐって入ってきたのは、二人連れの珍しい客でした。

一人は、どこにでもいるような質素な麻の服を着た、体格の良い壮年の男。

もう一人は、深いフードを目深に被り、顔の上半分を隠した若い青年でした。身なりは地味ですが、歩き方や姿勢の良さから、明らかにこの水路沿いの路地には不似合いな、高貴な雰囲気を漂わせていました。


店内にいたカイルやザック、ルカたち常連客も、一瞬「おや?」という顔で二人を見ましたが、そこは「こいと」の暗黙のルール。他人の素性に深く立ち入るような無粋な真似はせず、すぐに自分たちのお酒と会話に戻りました。


「お二人は、初めてですね。温かいお茶にしましょうか、それともお酒になさいますか?」

小糸が穏やかに尋ねると、フードの青年が、少し低く、しかし驚くほど澄んだ声で答えました。

「……酒を。それと、料理は君のお任せで頼む。この街で一番美味いものを出してくれると聞いてきた」

「畏まりました。では、まずは春の息吹を感じていただきましょうか」


小糸は、二人の前に白木の小盆を置き、そこへ小さな素焼きの小鉢を三つ並べました。

「今日のお通しは、『春の三点盛り』です」

一つ目は、市場で手に入れた春の青菜を、特製のお出汁と少しの柑橘の果汁でサッと和えたお浸し。

二つ目は、冬の間に肉屋のガロンと共に仕込んでおいた「特製ホーンラビットの干し肉」を、薄く削いだもの。

三つ目は、リリアの八百屋で見つけた、ほろ苦い春の山菜を、先日完成した特製味噌で和えたもの。


「どうぞ、お召し上がりください」


フードの青年は、少し警戒したような手つきで箸(この世界では二本串)を手に取り、まずは青菜のお浸しを口に運びました。

「……!」

青年の動きが、ピタリと止まりました。

フードの奥で、彼の目が大きく見開かれるのが、小糸にははっきりと見えました。


「……なんだ、これは」

青年が低く呟きました。

「ただの青葉の塩茹でかと思ったが……噛んだ瞬間、信じられないほど深く、複雑な旨味の汁が口いっぱいに広がる。それに、この微かな柑橘の香りが、青葉の青臭さを完全にかき消して、爽やかな春の風のように鼻を抜けていく……!」


青年は次に、薄く削がれた干し肉を口に入れました。

「……これも驚きだ。干し肉特有のガチガチとした硬さや、嫌な臭みが全くない。噛めば噛むほど、香草の香りと、肉本来の強い甘みが溢れ出してくる。一体、どんな高度な保存魔法を使えば、こんな極上の味になるのだ?」

隣に座る壮年の男も、驚きで目を見開きながら無言で箸を進めています。


「魔法なんて使っていませんよ」

小糸は、カウンターを布巾でゆっくりと拭きながら、くすくすと笑いました。

「お出汁は、キノコや木の実、小魚などの命の旨味を、喧嘩しないように組み合わせただけ。干し肉も、お塩と香草の力を少しだけ手助けしてあげただけです。……お口に合いましたか?」


「……ああ。見事というほかない」

フードの青年は、深く溜息をつき、三つの小鉢をあっという間に平らげてしまいました。


その後も、小糸は絶妙なタイミングで料理を出していきました。

出汁をたっぷりと吸い込ませた、黄金色の厚焼き卵。

脂の乗った豚肉によく似た肉を、特製味噌と香草でホロホロになるまで煮込んだ角煮。

そして〆には、身体の芯から温まる、具だくさんの豚汁風の味噌汁。


青年は、料理が運ばれてくるたびに驚愕の声を漏らし、最後は出されたお茶を両手で包み込むように持ちながら、深く、長い溜息を吐き出しました。

「……信じられん。王都の高級レストランの専属料理長が作る料理よりも、いや、王宮の晩餐会で出される宮廷料理よりも、この小さな路地裏の店で出される料理の方が、遥かに私の舌を、そして心を震わせた。……『魔法の知恵を持つ女将』という噂は、どうやら真実だったようだな」


青年がそう言うと、彼はゆっくりと、頭に被っていた深いフードを後ろへと脱ぎ去りました。

現れたのは、プラチナブロンドの美しい髪と、意志の強さを感じさせる碧玉(へきぎょく)のような瞳を持つ、二十代半ばの非常に端正な顔立ちの青年でした。


その顔を見た瞬間、奥の席で飲んでいたカイルが「ブッ!」と盛大にお酒を吹き出しました。

「ゲホッ、ゴホッ……! べ、伯爵様……っ!?」

カイルが椅子から転げ落ちんばかりに驚き、慌ててその場に平伏しました。ザックやルカ、他の常連客たちも、顔を真っ青にして次々と立ち上がり、一斉に深く頭を下げます。


「よい、よい。今日は堅苦しい挨拶は抜きだ。皆、楽にして酒を続けてくれ」

青年が鷹揚(おうよう)に手を振ると、店内にいた者たちは、恐縮しながらも静かに席に戻りました。


「……レオンハルト・アルデバラン伯爵様、でいらっしゃいますね」

小糸が静かに、しかし決して卑屈にならない堂々とした態度で頭を下げると、レオンハルト伯爵は興味深そうな目で小糸を見つめました。


「ほう。私の顔を知っていたのか?」

「いいえ、存じ上げませんでした。ですが、カイルさんたちの驚きようと、あなたのそのお声の響き、そして何より、この街を心から愛し、領民の暮らしを真剣に憂えているそのお目元を見れば、あなたがこの街の立派な領主様であることは、すぐに分かります」

小糸が柔らかな笑顔で答えると、レオンハルト伯爵はハッとしたように息を呑み、そして、腹の底から楽しそうに笑い声を上げました。


「はははっ! これは一本取られたな。どんなに身なりを隠しても、君のその澄んだ瞳と『知恵』の前では、私の正体などお見通しだったというわけか。……いやはや、素晴らしい」


レオンハルト伯爵は、姿勢を正し、小糸に向かって真剣な表情を向けました。

「小糸女史。私が今日、わざわざお忍びで君の店を訪ねたのは、君の料理の腕前を確かめるためだけではない。……実は、君のその比類なき『知恵』を借りて、どうしても相談したいことがあったのだ」


「私に、ご相談ですか?」

「ああ」

レオンハルト伯爵は、木製のカウンターに両肘をつき、指先を組み合わせました。


「このアルデバラン伯爵領は、水も空気も美しく、治安も良い。領民たちも皆、真面目に働いてくれている。だが……我が領地には、致命的に欠けているものが一つあるのだ。それは、他国や王都の商人たちを惹きつけるだけの、強力な『特産品』だ」

伯爵の顔に、若き領主としての深い苦悩の影が差しました。


「王都の内陸部には、豊かな鉱山がある。南方の領地には、広大な果樹園とワインがある。だが、我がアルデバラン領で採れるのは、どこにでもある普通の野菜と、ホーンラビットの肉くらいのものだ。……このままでは、領地の経済はいつか頭打ちになる。領民たちに、さらに豊かで安心できる暮らしを提供するためには、この街の『名前』を世界に轟かせるような、新しい、そして誰も真似できない特産品がどうしても必要なのだ」


伯爵の熱を帯びた言葉に、小糸は静かに耳を傾けていました。


「そこで、君の噂を聞いたのだ」

レオンハルト伯爵の碧玉の瞳が、小糸を真っ直ぐに射抜きました。

「捨てられるはずだった肉の切れ端から、王都の商会が独占契約を申し出るほどの『肉味噌』を生み出し、気温の変化で腐りかけていた肉を『コンフィ』という極上の保存食に変えた、奇跡の知恵を持つ料理人がいると。……小糸。君の持つその素晴らしい知識と経験で、我がアルデバラン伯爵領の名物となるような、新しい『特産品』を作ってはくれないだろうか。資金や設備、必要な食材は、伯爵家の名においてすべて提供しよう」


店の中が、再び水を打ったような静寂に包まれました。

領主からの、直々の特産品開発の依頼。それは、一介の小料理屋の女将にとって、身に余るほどの光栄であり、同時に、もし失敗すれば領主の顔に泥を塗ることになる、とてつもない重圧を伴う大仕事でした。


カイルやザックたちが、心配そうに小糸を見つめています。

しかし、小糸の表情に、恐れや迷いは一切ありませんでした。


ふと、小糸の脳裏に、かつて日本で共に小料理屋を営んでいた夫、健三の言葉が蘇りました。

『いいか小糸。料理人にとって一番の幸せってのはな、金持ちに美味いって言われることじゃねえ。自分の作った料理が、その土地の「顔」になり、その街で生きる人間たちの生活を豊かにすることだ。俺たちの料理で、街を元気にできたら、それ以上の誉れはねえんだよ』


「……お父さん。私、この異世界で、少しだけ大きな仕事に挑戦してみてもいいかしら?」

小糸は心の中で健三に問いかけ、そっと微笑みました。


「……お引き受けいたします、レオンハルト伯爵様」

小糸が静かに、しかしはっきりとした声で答えると、レオンハルト伯爵の顔がパッと明るく輝きました。

「本当か! やってくれるか!」


「はい。この街の人たちには、見ず知らずの異国から来た私に、とても親切にしていただきました。私でお役に立てるのなら、喜んで知恵を絞らせていただきます」

小糸は深く頭を下げました。

「ただ、一つだけ条件がございます」


「条件? なんだ、言ってみろ。報酬の増額か? それとも、大きな厨房を用意しようか?」

「いいえ、お金も立派な厨房も必要ありません。私が欲しいのは……『時間』と『自由』です」

小糸は、伯爵の目を真っ直ぐに見つめ返しました。


「本当に美味しいもの、その土地の顔になるような本物の味は、頭で考えてすぐにポンと生み出せるようなものではありません。この土地の土、水、空気、そして人々の生活の匂い……それらすべてと対話しながら、何度も何度も失敗を繰り返して、初めて形になるものです。だから、期限は切らないでください。そして、私がどんなおかしな食材を要求しても、笑わずに用意してください。……それが、私からの条件です」


レオンハルト伯爵は、小糸のその料理人としての強烈な矜持(きょうじ)と覚悟に、圧倒されたように息を呑みました。

そして、深く、心からの敬意を込めて頷きました。


「……分かった。君の条件、すべて呑もう。期限は切らない。必要なものは何でも言ってくれ。我がアルデバラン家の全面的なバックアップを約束しよう」

「ありがとうございます。では、明日から早速、試作に取り掛からせていただきますね」


その夜。

レオンハルト伯爵が満足げに店を後にした後、「こいと」の店内は、常連客たちのお祭り騒ぎのような大歓声に包まれました。

「うおおおおっ! すげえぞおかみさん! 領主様直々の依頼なんて、歴史に残る大出世だ!」

「俺たちの『こいと』が、伯爵領の特産品を生み出すお城になるんだな!」

カイルやガロンたちが、自分のことのように大喜びでジョッキを打ち鳴らします。


「みんな、あまりプレッシャーをかけないでくださいな。私はただ、この街の皆さんが笑顔になるような、美味しいものを作りたいだけですから」

小糸がくすくすと笑いながらお酒を注いで回ると、客たちはさらに盛り上がり、夜遅くまで宴は続きました。


深夜。

宴が終わり、静けさを取り戻した厨房で、小糸は一人、まな板の前に立っていました。

「掃除の知恵」と「洗濯の知恵」によって最適化された身体は、今日も疲労を知らず、若々しい活気に満ちています。


「特産品、か……」

小糸は、腕を組んで静かに考え込みました。

領主の期待に応えるためには、ただ美味しいだけでは駄目です。

王都の貴族たちも唸らせるような上品さがあり、なおかつ、長期間保存が効き、遠くの国まで馬車で運べる「耐久性」を持っていなければなりません。

そして何より、このアルデバラン伯爵領ならではの「風土」を感じさせるものでなければ、本物の特産品とは呼べないのです。


「簡単な道のりじゃないわね。でも……なんだか、すごくワクワクしてきたわ」

小糸は、厨房の隅に置かれた健三の湯呑みに向かって、にっこりと微笑みました。

「お父さん。私、七十歳にして、とんでもない大仕事を引き受けちゃったわよ。明日から、また一緒に、新しい味探しの旅に出ましょうね」


アルデバラン伯爵領の静かな水路沿いに灯る、小料理屋「こいと」の小さな明かり。

それは今、ただの憩いの場を超えて、この領地全体の未来を切り拓く、壮大な「味の革命」の最前線基地となろうとしていました。

七十歳の老女、小糸の異世界生活は、ここにきてかつてないほどの大きなうねりの中に、静かに、そして力強く漕ぎ出していったのです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。