第13話 お忍びの領主と特産品の相談
アルデバラン伯爵領に、長く厳しい冬の終わりを告げる春の気配が漂い始めていました。
雪解け水が水路の勢いを増し、街の市場には、冬の間は姿を消していた色鮮やかな春の青菜や、香りの良い山菜が少しずつ並び始めています。
行商人のカイルが、小糸の「節約の知恵」から生まれた端肉の肉味噌と肉団子で、王都での絶体絶命のピンチを見事に大逆転させてから数週間。
小料理屋「こいと」の評判は、商人や職人たちの口コミによって、アルデバラン伯爵領の隅々にまで浸透していました。
「『こいと』のおかみさんは、ただ料理が美味いだけじゃない。どんな悩み事も、魔法みたいな知恵で解決してくれるんだ」
「ああ、喧嘩の仲裁から、お肉の保存、商売のピンチまで、なんだってスッキリさせてくれる。まさに、この街の裏の守り神みたいな人だよ」
そんな噂が街中を飛び交うようになったある日の夕暮れ。
春の柔らかな風が、藍色の暖簾を心地よく揺らしている頃でした。
「いらっしゃいませ。どうぞ、お好きな席へ」
厨房の中央に立つ小糸が柔らかな声で迎えると、暖簾をくぐって入ってきたのは、二人連れの珍しい客でした。
一人は、どこにでもいるような質素な麻の服を着た、体格の良い壮年の男。
もう一人は、深いフードを目深に被り、顔の上半分を隠した若い青年でした。身なりは地味ですが、歩き方や姿勢の良さから、明らかにこの水路沿いの路地には不似合いな、高貴な雰囲気を漂わせていました。
店内にいたカイルやザック、ルカたち常連客も、一瞬「おや?」という顔で二人を見ましたが、そこは「こいと」の暗黙のルール。他人の素性に深く立ち入るような無粋な真似はせず、すぐに自分たちのお酒と会話に戻りました。
「お二人は、初めてですね。温かいお茶にしましょうか、それともお酒になさいますか?」
小糸が穏やかに尋ねると、フードの青年が、少し低く、しかし驚くほど澄んだ声で答えました。
「……酒を。それと、料理は君のお任せで頼む。この街で一番美味いものを出してくれると聞いてきた」
「畏まりました。では、まずは春の息吹を感じていただきましょうか」
小糸は、二人の前に白木の小盆を置き、そこへ小さな素焼きの小鉢を三つ並べました。
「今日のお通しは、『春の三点盛り』です」
一つ目は、市場で手に入れた春の青菜を、特製のお出汁と少しの柑橘の果汁でサッと和えたお浸し。
二つ目は、冬の間に肉屋のガロンと共に仕込んでおいた「特製ホーンラビットの干し肉」を、薄く削いだもの。
三つ目は、リリアの八百屋で見つけた、ほろ苦い春の山菜を、先日完成した特製味噌で和えたもの。
「どうぞ、お召し上がりください」
フードの青年は、少し警戒したような手つきで箸(この世界では二本串)を手に取り、まずは青菜のお浸しを口に運びました。
「……!」
青年の動きが、ピタリと止まりました。
フードの奥で、彼の目が大きく見開かれるのが、小糸にははっきりと見えました。
「……なんだ、これは」
青年が低く呟きました。
「ただの青葉の塩茹でかと思ったが……噛んだ瞬間、信じられないほど深く、複雑な旨味の汁が口いっぱいに広がる。それに、この微かな柑橘の香りが、青葉の青臭さを完全にかき消して、爽やかな春の風のように鼻を抜けていく……!」
青年は次に、薄く削がれた干し肉を口に入れました。
「……これも驚きだ。干し肉特有のガチガチとした硬さや、嫌な臭みが全くない。噛めば噛むほど、香草の香りと、肉本来の強い甘みが溢れ出してくる。一体、どんな高度な保存魔法を使えば、こんな極上の味になるのだ?」
隣に座る壮年の男も、驚きで目を見開きながら無言で箸を進めています。
「魔法なんて使っていませんよ」
小糸は、カウンターを布巾でゆっくりと拭きながら、くすくすと笑いました。
「お出汁は、キノコや木の実、小魚などの命の旨味を、喧嘩しないように組み合わせただけ。干し肉も、お塩と香草の力を少しだけ手助けしてあげただけです。……お口に合いましたか?」
「……ああ。見事というほかない」
フードの青年は、深く溜息をつき、三つの小鉢をあっという間に平らげてしまいました。
その後も、小糸は絶妙なタイミングで料理を出していきました。
出汁をたっぷりと吸い込ませた、黄金色の厚焼き卵。
脂の乗った豚肉によく似た肉を、特製味噌と香草でホロホロになるまで煮込んだ角煮。
そして〆には、身体の芯から温まる、具だくさんの豚汁風の味噌汁。
青年は、料理が運ばれてくるたびに驚愕の声を漏らし、最後は出されたお茶を両手で包み込むように持ちながら、深く、長い溜息を吐き出しました。
「……信じられん。王都の高級レストランの専属料理長が作る料理よりも、いや、王宮の晩餐会で出される宮廷料理よりも、この小さな路地裏の店で出される料理の方が、遥かに私の舌を、そして心を震わせた。……『魔法の知恵を持つ女将』という噂は、どうやら真実だったようだな」
青年がそう言うと、彼はゆっくりと、頭に被っていた深いフードを後ろへと脱ぎ去りました。
現れたのは、プラチナブロンドの美しい髪と、意志の強さを感じさせる碧玉のような瞳を持つ、二十代半ばの非常に端正な顔立ちの青年でした。
その顔を見た瞬間、奥の席で飲んでいたカイルが「ブッ!」と盛大にお酒を吹き出しました。
「ゲホッ、ゴホッ……! べ、伯爵様……っ!?」
カイルが椅子から転げ落ちんばかりに驚き、慌ててその場に平伏しました。ザックやルカ、他の常連客たちも、顔を真っ青にして次々と立ち上がり、一斉に深く頭を下げます。
「よい、よい。今日は堅苦しい挨拶は抜きだ。皆、楽にして酒を続けてくれ」
青年が鷹揚に手を振ると、店内にいた者たちは、恐縮しながらも静かに席に戻りました。
「……レオンハルト・アルデバラン伯爵様、でいらっしゃいますね」
小糸が静かに、しかし決して卑屈にならない堂々とした態度で頭を下げると、レオンハルト伯爵は興味深そうな目で小糸を見つめました。
「ほう。私の顔を知っていたのか?」
「いいえ、存じ上げませんでした。ですが、カイルさんたちの驚きようと、あなたのそのお声の響き、そして何より、この街を心から愛し、領民の暮らしを真剣に憂えているそのお目元を見れば、あなたがこの街の立派な領主様であることは、すぐに分かります」
小糸が柔らかな笑顔で答えると、レオンハルト伯爵はハッとしたように息を呑み、そして、腹の底から楽しそうに笑い声を上げました。
「はははっ! これは一本取られたな。どんなに身なりを隠しても、君のその澄んだ瞳と『知恵』の前では、私の正体などお見通しだったというわけか。……いやはや、素晴らしい」
レオンハルト伯爵は、姿勢を正し、小糸に向かって真剣な表情を向けました。
「小糸女史。私が今日、わざわざお忍びで君の店を訪ねたのは、君の料理の腕前を確かめるためだけではない。……実は、君のその比類なき『知恵』を借りて、どうしても相談したいことがあったのだ」
「私に、ご相談ですか?」
「ああ」
レオンハルト伯爵は、木製のカウンターに両肘をつき、指先を組み合わせました。
「このアルデバラン伯爵領は、水も空気も美しく、治安も良い。領民たちも皆、真面目に働いてくれている。だが……我が領地には、致命的に欠けているものが一つあるのだ。それは、他国や王都の商人たちを惹きつけるだけの、強力な『特産品』だ」
伯爵の顔に、若き領主としての深い苦悩の影が差しました。
「王都の内陸部には、豊かな鉱山がある。南方の領地には、広大な果樹園とワインがある。だが、我がアルデバラン領で採れるのは、どこにでもある普通の野菜と、ホーンラビットの肉くらいのものだ。……このままでは、領地の経済はいつか頭打ちになる。領民たちに、さらに豊かで安心できる暮らしを提供するためには、この街の『名前』を世界に轟かせるような、新しい、そして誰も真似できない特産品がどうしても必要なのだ」
伯爵の熱を帯びた言葉に、小糸は静かに耳を傾けていました。
「そこで、君の噂を聞いたのだ」
レオンハルト伯爵の碧玉の瞳が、小糸を真っ直ぐに射抜きました。
「捨てられるはずだった肉の切れ端から、王都の商会が独占契約を申し出るほどの『肉味噌』を生み出し、気温の変化で腐りかけていた肉を『コンフィ』という極上の保存食に変えた、奇跡の知恵を持つ料理人がいると。……小糸。君の持つその素晴らしい知識と経験で、我がアルデバラン伯爵領の名物となるような、新しい『特産品』を作ってはくれないだろうか。資金や設備、必要な食材は、伯爵家の名においてすべて提供しよう」
店の中が、再び水を打ったような静寂に包まれました。
領主からの、直々の特産品開発の依頼。それは、一介の小料理屋の女将にとって、身に余るほどの光栄であり、同時に、もし失敗すれば領主の顔に泥を塗ることになる、とてつもない重圧を伴う大仕事でした。
カイルやザックたちが、心配そうに小糸を見つめています。
しかし、小糸の表情に、恐れや迷いは一切ありませんでした。
ふと、小糸の脳裏に、かつて日本で共に小料理屋を営んでいた夫、健三の言葉が蘇りました。
『いいか小糸。料理人にとって一番の幸せってのはな、金持ちに美味いって言われることじゃねえ。自分の作った料理が、その土地の「顔」になり、その街で生きる人間たちの生活を豊かにすることだ。俺たちの料理で、街を元気にできたら、それ以上の誉れはねえんだよ』
「……お父さん。私、この異世界で、少しだけ大きな仕事に挑戦してみてもいいかしら?」
小糸は心の中で健三に問いかけ、そっと微笑みました。
「……お引き受けいたします、レオンハルト伯爵様」
小糸が静かに、しかしはっきりとした声で答えると、レオンハルト伯爵の顔がパッと明るく輝きました。
「本当か! やってくれるか!」
「はい。この街の人たちには、見ず知らずの異国から来た私に、とても親切にしていただきました。私でお役に立てるのなら、喜んで知恵を絞らせていただきます」
小糸は深く頭を下げました。
「ただ、一つだけ条件がございます」
「条件? なんだ、言ってみろ。報酬の増額か? それとも、大きな厨房を用意しようか?」
「いいえ、お金も立派な厨房も必要ありません。私が欲しいのは……『時間』と『自由』です」
小糸は、伯爵の目を真っ直ぐに見つめ返しました。
「本当に美味しいもの、その土地の顔になるような本物の味は、頭で考えてすぐにポンと生み出せるようなものではありません。この土地の土、水、空気、そして人々の生活の匂い……それらすべてと対話しながら、何度も何度も失敗を繰り返して、初めて形になるものです。だから、期限は切らないでください。そして、私がどんなおかしな食材を要求しても、笑わずに用意してください。……それが、私からの条件です」
レオンハルト伯爵は、小糸のその料理人としての強烈な矜持と覚悟に、圧倒されたように息を呑みました。
そして、深く、心からの敬意を込めて頷きました。
「……分かった。君の条件、すべて呑もう。期限は切らない。必要なものは何でも言ってくれ。我がアルデバラン家の全面的なバックアップを約束しよう」
「ありがとうございます。では、明日から早速、試作に取り掛からせていただきますね」
その夜。
レオンハルト伯爵が満足げに店を後にした後、「こいと」の店内は、常連客たちのお祭り騒ぎのような大歓声に包まれました。
「うおおおおっ! すげえぞおかみさん! 領主様直々の依頼なんて、歴史に残る大出世だ!」
「俺たちの『こいと』が、伯爵領の特産品を生み出すお城になるんだな!」
カイルやガロンたちが、自分のことのように大喜びでジョッキを打ち鳴らします。
「みんな、あまりプレッシャーをかけないでくださいな。私はただ、この街の皆さんが笑顔になるような、美味しいものを作りたいだけですから」
小糸がくすくすと笑いながらお酒を注いで回ると、客たちはさらに盛り上がり、夜遅くまで宴は続きました。
深夜。
宴が終わり、静けさを取り戻した厨房で、小糸は一人、まな板の前に立っていました。
「掃除の知恵」と「洗濯の知恵」によって最適化された身体は、今日も疲労を知らず、若々しい活気に満ちています。
「特産品、か……」
小糸は、腕を組んで静かに考え込みました。
領主の期待に応えるためには、ただ美味しいだけでは駄目です。
王都の貴族たちも唸らせるような上品さがあり、なおかつ、長期間保存が効き、遠くの国まで馬車で運べる「耐久性」を持っていなければなりません。
そして何より、このアルデバラン伯爵領ならではの「風土」を感じさせるものでなければ、本物の特産品とは呼べないのです。
「簡単な道のりじゃないわね。でも……なんだか、すごくワクワクしてきたわ」
小糸は、厨房の隅に置かれた健三の湯呑みに向かって、にっこりと微笑みました。
「お父さん。私、七十歳にして、とんでもない大仕事を引き受けちゃったわよ。明日から、また一緒に、新しい味探しの旅に出ましょうね」
アルデバラン伯爵領の静かな水路沿いに灯る、小料理屋「こいと」の小さな明かり。
それは今、ただの憩いの場を超えて、この領地全体の未来を切り拓く、壮大な「味の革命」の最前線基地となろうとしていました。
七十歳の老女、小糸の異世界生活は、ここにきてかつてないほどの大きなうねりの中に、静かに、そして力強く漕ぎ出していったのです。




