北の義賊旗、嵐の予兆
1373年。北の風は、もはや単なる噂を運ぶものではなかった。
それは、平壌の街角から山間の炭焼き小屋までを震わせる「変革の地鳴り」へと変わっていた。
「……三百か」
洪道允は、義賊旗の端を無意識に指でなぞった。
黒地に白く抜かれた「一筋の針」。民の痛みを取り、腐った肉を縫い合わせるという誓いの象徴だ。今、その旗の下には、握り飯を分け合う農民から、誇りを捨てきれぬ浪人まで、三百の命がひしめいている。
「道允、手が震えているぞ」
ハジュンが、冷え切った酒を差し出しながら言った。
「……寒さのせいだ。と言いたいが、そうじゃねえな。こいつら全員を死なせるかもしれないと思うと、腹の底が冷えるんだよ」
道允は自嘲気味に笑い、酒を一気に煽った。
同時刻、平壌の王宮。
金箔の剥げかけた謁見の間で、呂卓は虚空を見つめていた。
かつて「英明」と謳われた面影は、過度な色欲と薬酒によって土気色に濁っている。その背後で、張妲姫が長い指で王の肩を揉みほぐしていた。
「陛下、北の『針』が、ついに陛下の玉座に届こうとしております。……お痛いでしょう?」
妲姫の甘い声が、呂卓の耳に毒のように注がれる。
「五百の精鋭を送る。指揮は、無慈悲で知られる崔将軍に任せよう。……虫ケラどもを、一人残らず踏み潰せ」
呂卓が獣のような声を上げると、妲姫は満足げに微笑んだ。彼女の瞳に映っているのは、王への忠誠ではない。この戦乱を薪として、自らが頂点へと昇りつめるための「火」だ。
「姉さんからの急報です。討伐軍の先鋒は崔将軍。……捕虜を一人も作らない、虐殺の徒です」
恩淑が地図を叩いた。
「まともにぶつかれば、一刻も持たずに壊滅します。……道允、それでも戦うの?」
道允は立ち上がり、酒場の外に集まった三百人の顔を見渡した。
そこには、自分を信じて家を捨て、家族を背負ってきた者たちがいる。
「恩淑。俺は針売りだ。……折れることはあっても、曲がることはできねえんだよ」
道允は、高く掲げられた義賊旗を見上げた。
南の空には、もう一人の英雄、李昭俊が同じく討伐軍を迎え撃とうとしているだろう。
「ハジュン。地の利を活かす策を考えろ。……五百の首を獲って、王宮の門に並べてやる」
北の夜空を、一筋の流星が切り裂いた。
それは不吉な予兆か、あるいは新しい時代の誕生か。
北の針と南の油。二つの火花が、高句麗という名の古びた大殿を焼き尽くすための「開戦の前夜」が、静かに更けていった。




