油売の野望
南の風は、北よりも重く、湿っていた。
それは肥沃な大地の匂いというより、溜まった澱みが腐敗していく匂いに似ていた。
李昭俊、24歳。
日に焼けた首筋に汗を滴らせ、彼は天秤棒を担ぎ直した。左右の壺には、特級の胡麻油が満ちている。
「油はいらんかね。一滴で料理が化ける、黄金の油だ」
呼び声は軽やかだが、その瞳は街並みを走査する猛禽のようだった。
ソジュンにとって、油売りは仮の姿に過ぎない。この六年間、彼は油を注ぐように、各地の「綻び」に情報を染み込ませてきた。
慶州から二里。立ち寄った宿場町は、死んでいた。
広場を埋める民衆の肩は、目に見えぬ重圧に押し潰され、子供の瞳からは好奇心が枯れ果てている。
「――よって、南方鎮撫使の通達により、塩と油の流通税をさらに二割加算する」
台上の官吏が、脂ぎった顔を歪めて宣言した。その胸元には、朝廷の徴収官が身につけるはずのない、南方の稀少な真珠が揺れている。
(朝廷への上納か、それとも奴の私腹か。答えは真珠の輝きが語っているな)
ソジュンは群衆の端で、冷めた笑みを浮かべた。
怒りで血を沸騰させるのは、素人の仕事だ。プロは、その怒りを冷徹な「算盤」へと変える。
「おい、油売り。こっちへ来い」
官吏の背後に控えていた護衛が、ソジュンを呼びつけた。
「その壺、中身を検めさせろ。新税の適用対象だ」
「へえ、そりゃあご苦労なこって」
ソジュンは卑屈なまでに腰を低くし、壺の蓋を開けた。芳醇な胡麻の香りが広がる。
「ほう、上物だな。これは没収だ。税の滞納分としてな」
護衛が手を伸ばした瞬間、ソジュンの指先が壺の縁をわずかに弾いた。
「おっと、失礼。手が滑りまして」
一滴、二滴。無色透明に近い精製油が、護衛の足元の滑らかな石畳にこぼれ落ちる。
「貴様、何を――」
怒鳴り散らそうとした護衛の足が、氷の上を滑るように空を切った。
――ガシャリ!
重厚な鎧を纏った男が、無様にひっくり返る。広場に乾いた音が響き、沈んでいた民衆の間から、一瞬だけ忍び笑いが漏れた。
「申し訳ございません! すぐに拭き取りますので!」
ソジュンは慌てて布で拭う振りをしながら、護衛の腰に下げられた「徴収台帳」の内容を、一瞬で網膜に焼き付けた。
(……なるほど。帳簿と今の宣言、数字が合わない。三割は中抜きか。実にいい「油」が乗っている)
夜、町外れの茶屋。
ソジュンは、安酒の杯を傾けながら、昼間の台帳の数字を頭の中の地図に書き込んでいた。
「……聞いたか。北の平壌じゃ、針売りの若造が役人をぶち殺して逃げ回ってるらしいぜ」
隣の卓で、旅商人が声を潜めて話していた。
「義賊だとよ。仲間を集めて、王朝をひっくり返すとか何とか」
「馬鹿な奴だ。ハエが牛を倒そうとするようなもんだ」
ソジュンは杯を置き、夜空を見上げた。
北の空には、不器用で熱すぎる火種が生まれたらしい。だが、火だけでは足りない。火を爆発させ、国中に広げるための「燃料」が必要だ。
(洪道允か。会う価値があるかどうか、俺が測ってやる)
彼は天秤棒を引き寄せた。
油売りが変えるのは、料理の味だけではない。
明日、この宿場町を出る時、ソジュンの手元には、官吏を破滅させるに十分な「偽造された収支報告書」が完成しているはずだ。
「さあ、まずはこの町の『火床』を整えるとしようか」
ソジュンは静かに立ち上がった。
南の湿った風が、彼の背中を押すように吹き抜けていった。




