酒場の夫婦と双子の芸人
平壌の夜は、二つの顔を持つ。
官憲が目を光らせる大通りが「表」なら、路地の奥に潜むチャン夫婦の酒場は、この国の「膿」を吐き出すための溜まり場だ。
「……三番卓、酒のお代わりだ。あそこは役所の帳簿係だ。愚痴と一緒に、今年の徴収予定を吐き出すだろうよ」
亭主の張道俊が、感情を殺した声で囁いた。
女将の河那は、豪快な笑みを浮かべながら頷く。彼女の耳は、喧騒の中から宝石のような「機密」を拾い上げる濾過器だ。
そこへ、沈河俊が影を連れて入ってきた。
「ドユンは?」
「まださ。針を売るフリをして、街の風を読みに行ったよ。……指名手配犯が、一番大胆に動くんだから、世話がないね」
河那は呆れたように肩をすくめたが、その目は店外の不穏な気配を片時も離さなかった。
その頃、道允は市場の広場で、言葉を失って立ち尽くしていた。
人垣の向こう、鮮やかな緋色の衣が夜風を切り裂いていた。
崔恩実。
彼女が袖を翻すたび、人々の絶望が吸い取られていくような錯覚に陥る。しなやかな肢体は、時に激流のように、時に柳のようにしなり、観客の視線を一本の糸で操るかのように惹きつけていた。
(……見事だ。だが、この舞は――)
道允の目は、舞台の隅に座るもう一人の影を捉えた。
崔恩淑。
姉と瓜二つの顔を持ちながら、その瞳には熱がない。彼女は舞に酔いしれる観客の顔ぶれ、配置された官吏の数、そして――人垣の中で身を隠す道允の存在を、冷徹な精密さで計測していた。
「場所代だ。銀貨十枚、今すぐ出してもらおうか」
舞が終わるや否や、品性の卑しい商人が用心棒を引き連れて割って入った。平壌の市場を食い物にする寄生虫、金という男だ。
恩実の笑顔が消え、恩淑が静かに立ち上がる。
「場所代? 私たちは平壌府の許可を得て――」
「許可だぁ? 俺が法だと言ったら法なんだよ!」
金が顎をしゃくると、用心棒の拳が恩実の細い肩に向かって振り下ろされた。
だが、その拳が届くことはなかった。
闇を裂いて飛来した一本の細い針が、用心棒の袖を舞台の柱に深く縫い留めたのだ。
「悪いな。俺の針は、野暮な奴を見かけると勝手に動く性質なんだ」
道允が、木箱を肩にかけ、飄々とした足取りで現れた。
「貴様……指名手配の……!」
「おっと、名前を呼ぶなら覚悟しろよ。死神の耳は、案外近いぞ」
道允の瞳が、一瞬で鋭利な刃と化した。踏み込みと同時に、用心棒の急所を的確に突く。力任せの暴力ではない、淀みのない「処刑」に近い動きだ。
金が悲鳴を上げて逃げ出すと、広場には静寂と、双子の姉妹が残された。
「……助けは不要でした。あいつの懐には、妹が毒を仕込んだ針をすでに忍ばせていましたから」
恩淑が、冷ややかな声で告げた。その瞳は、道允の正体を完全に見透かしていた。
「洪道允さん。針売りであり、官吏殺しの重罪人。そして――」
彼女は一歩歩み寄り、道允の耳元で囁いた。
「沈河俊を軍師に据え、この国の根を断とうとしている狂人」
チャン夫婦の酒場に招かれた双子は、不揃いな杯を前にしても動じなかった。
恩淑は卓の上に、自らが旅先で収集した「高句麗北部の兵站図」を無造作に放り出した。
「私たちは、ただの芸人ではありません。旅をしながら、この国の腐敗の『形』を記録してきました」
「姉が舞い、人心を掌握する。その間に、私が城郭の綻びと、役人の癒着を洗い出す。……私たちには、変える力があります」
ハジュンが、その兵站図を食い入るように見つめた。
「……これは、本物か。王宮の書庫にしかないはずの情報が混ざっている」
「踊り子の着替えを覗きに来る役人は、口が軽いものですから」
恩実が茶目っ気たっぷりに笑った。だが、その瞳の奥には、彼女たちが潜り抜けてきた死線の数々が、鋭い光となって焼き付いていた。
「ドユン、どう思う」
ハジュンの問いに、道允は迷わず酒を注ぎ足した。
「決まってる。俺が欲しかったのは『武力』だけじゃない。この国の闇を照らす『目』だ。……お前たちの力、この国を縫い直すために貸してくれ」
河那が新しい酒瓶を豪快に卓へ置いた。
「いいかい、あんたたち。この店に来たからには、ただの客じゃいられないよ。地獄の底まで付き合ってもらうからね!」
杯が触れ合い、新たな誓いが立てられた。
知略のハジュン、剛力のチョルス、そして変幻自在の双子――。
道允の周りに集まったのは、社会の爪弾き者たちではない。この腐った時代を終わらせるために生まれてきた、選ばれし「破片」たちだった。




