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暁の王朝  作者: 水前寺鯉太郎
ドユン編

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3/22

孤高の拳

平壌の市場、その喧騒から浮き上がった「空白」のような場所に、その男はいた。

 鄭哲洙チョンチョルス、20代半ば。

 荒く削り出された岩のような骨格。無骨な顔には、感情という名の贅肉が一切削ぎ落とされている。男が通り過ぎるたび、商売人たちの威勢のいい声がわずかに止み、背中が通り過ぎてから再び動き出す。

 彼はただの荷運び人として日々を過ごしていたが、その拳が一度振るわれれば、牛の骨をも砕くという噂が、市場の裏側で密かに囁かれていた。

 事件は、腐った魚の臭いが漂う布売り場で起きた。

「――返せだと? この老婆、寝ぼけたことを!」

 肥え太った商人が、一人の老婆を突き飛ばした。老婆の手からこぼれ落ちた布は、あちこちが虫食いのように綻んでいる。

「お代官、どうか……。これで孫の晴れ着を縫わねばならんのです。蓄えをすべて叩いたのです……」

「知るか! 運が悪かったと思って諦めろ」

 商人の合図で、傍らに控えていた棒使いの用心棒が、あざ笑いながら棍棒を振り上げた。

 その光景を、チョルスは十歩離れた場所で見ていた。

 彼の瞳は、怒りに燃えることも、哀れみに沈むこともない。ただ、歪んだ法が、弱い者を踏み砕く瞬間を、鏡のように無機質に映し出していた。

 ――ズシン、と。

 チョルスが一歩を踏み出した時、地面の砂が微かに跳ねた。

「……謝れ」

 地底から響くような低音。

 商人が振り返った。そこには、身の丈六尺はあろうかという巨漢が、夕闇のような影を落として立っていた。

「謝れと言った。その布を替え、老婆に謝罪しろ」

「何を……! やれ、叩き出せ!」

 用心棒の棍棒が、チョルスの脳天をめがけて振り下ろされる。

 だが、チョルスは避けない。

 鈍い衝撃音が響いた。棍棒は、チョルスの太い腕一本で受け止められていた。ピクリとも動かない。

「次は、俺の番だ」

 チョルスの拳が、弾丸のごとく放たれた。

 乱闘の最中、市場の屋根を飛び越える影があった。

 顔を深い手ぬぐいで隠した青年、道允だ。彼はハジュンから命じられた「地下組織への連絡」を済ませる戻り道だったが、この喧騒を見過ごせる性格ではなかった。

「おっと、そっちは俺の獲物だぜ!」

 官兵たちの包囲網を割り、道允が鮮やかに着地した。

 突然の乱入者に、チョルスが眉をひそめる。

「何者だ」

「ただの針売り。だが、曲がった釘を打ち直すのは得意なんだ」

 道允は不敵に笑うと、袖口から三本の針を覗かせた。

 そこからは、言葉の要らぬ共演だった。

 道允が風のように舞い、官兵たちの視界を奪い、関節を的確に突く。その隙を突いて、チョルスの重い一撃が城壁を崩すように炸裂した。

 華麗なまでの速さと、圧倒的なまでの重さ。

 二人の異なる「武」が重なった瞬間、数に勝るはずの官兵たちは、木の葉のように散っていった。

「……逃げるぞ。ここは俺が案内する」

 道允の言葉に、チョルスはわずかに頷いた。

 市場の最果て、古びた酒場「チャン家」。

 女将の河那ハナは、泥を跳ね飛ばして飛び込んできた道允と巨漢を見て、豪快に笑い飛ばした。

「あら、また厄介な客を連れてきたね。道俊ドジュン、奥の特別な酒を出しな!」

 夫の道俊は無言で頷き、酒場の隠し戸を塞ぐようにして入り口に立った。

 奥の卓には、すでに沈河俊が座っていた。

「ドユン、外出を控えるように言ったはずだが」

 冷徹なハジュンの声。だが、道允はそれを笑って受け流した。

「それより、ハジュン。見てくれよ、こいつを。高句麗にまだこんな『岩』が残ってるとは思わなかった」

 ハジュンはチョルスを射抜くような目で見つめた。チョルスもまた、杯に手をかけることなく、ハジュンの奥底にある覚悟を測るように見返した。

「鄭哲洙だ。……お前たちの噂は、街の隅っこで嫌というほど聞いた」

「鄭哲洙。お前はなぜ、あの老婆を助けた」

 ハジュンの問いに、チョルスは短く答えた。

「……腹が立った。それだけだ」

 ハジュンはその答えに満足したのか、自ら杯に酒を注ぎ、チョルスへ差し出した。

「打算のない怒りは、この腐った都で最も価値のある宝石だ。俺たちは、その怒りを集めて、王宮を焼き尽くす炎にしたいと考えている。お前の拳、民のために貸す気はあるか」

 チョルスは道允の瞳を見た。そこには、暗闇を照らすような一点の曇りもない熱がある。

 彼は大きな手で杯を掴み、一気に飲み干した。

「……俺は不器用だ。壊すことしかできん」

「上等だ。まずはこの腐りきった秩序を壊すことから始める」

 道允が笑い、三人の手が卓の上で重なった。

 夜の帳が降りる頃、チャン家の酒場からは、これからの戦いを予感させる低い笑い声が漏れていた。

 針、知略、そして巨岩。

 欠けた歯車が噛み合い、高句麗の歴史を書き換える巨大な機構が、ついに動き出そうとしていた。

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