孤高の拳
平壌の市場、その喧騒から浮き上がった「空白」のような場所に、その男はいた。
鄭哲洙、20代半ば。
荒く削り出された岩のような骨格。無骨な顔には、感情という名の贅肉が一切削ぎ落とされている。男が通り過ぎるたび、商売人たちの威勢のいい声がわずかに止み、背中が通り過ぎてから再び動き出す。
彼はただの荷運び人として日々を過ごしていたが、その拳が一度振るわれれば、牛の骨をも砕くという噂が、市場の裏側で密かに囁かれていた。
事件は、腐った魚の臭いが漂う布売り場で起きた。
「――返せだと? この老婆、寝ぼけたことを!」
肥え太った商人が、一人の老婆を突き飛ばした。老婆の手からこぼれ落ちた布は、あちこちが虫食いのように綻んでいる。
「お代官、どうか……。これで孫の晴れ着を縫わねばならんのです。蓄えをすべて叩いたのです……」
「知るか! 運が悪かったと思って諦めろ」
商人の合図で、傍らに控えていた棒使いの用心棒が、あざ笑いながら棍棒を振り上げた。
その光景を、チョルスは十歩離れた場所で見ていた。
彼の瞳は、怒りに燃えることも、哀れみに沈むこともない。ただ、歪んだ法が、弱い者を踏み砕く瞬間を、鏡のように無機質に映し出していた。
――ズシン、と。
チョルスが一歩を踏み出した時、地面の砂が微かに跳ねた。
「……謝れ」
地底から響くような低音。
商人が振り返った。そこには、身の丈六尺はあろうかという巨漢が、夕闇のような影を落として立っていた。
「謝れと言った。その布を替え、老婆に謝罪しろ」
「何を……! やれ、叩き出せ!」
用心棒の棍棒が、チョルスの脳天をめがけて振り下ろされる。
だが、チョルスは避けない。
鈍い衝撃音が響いた。棍棒は、チョルスの太い腕一本で受け止められていた。ピクリとも動かない。
「次は、俺の番だ」
チョルスの拳が、弾丸のごとく放たれた。
乱闘の最中、市場の屋根を飛び越える影があった。
顔を深い手ぬぐいで隠した青年、道允だ。彼はハジュンから命じられた「地下組織への連絡」を済ませる戻り道だったが、この喧騒を見過ごせる性格ではなかった。
「おっと、そっちは俺の獲物だぜ!」
官兵たちの包囲網を割り、道允が鮮やかに着地した。
突然の乱入者に、チョルスが眉をひそめる。
「何者だ」
「ただの針売り。だが、曲がった釘を打ち直すのは得意なんだ」
道允は不敵に笑うと、袖口から三本の針を覗かせた。
そこからは、言葉の要らぬ共演だった。
道允が風のように舞い、官兵たちの視界を奪い、関節を的確に突く。その隙を突いて、チョルスの重い一撃が城壁を崩すように炸裂した。
華麗なまでの速さと、圧倒的なまでの重さ。
二人の異なる「武」が重なった瞬間、数に勝るはずの官兵たちは、木の葉のように散っていった。
「……逃げるぞ。ここは俺が案内する」
道允の言葉に、チョルスはわずかに頷いた。
市場の最果て、古びた酒場「チャン家」。
女将の河那は、泥を跳ね飛ばして飛び込んできた道允と巨漢を見て、豪快に笑い飛ばした。
「あら、また厄介な客を連れてきたね。道俊、奥の特別な酒を出しな!」
夫の道俊は無言で頷き、酒場の隠し戸を塞ぐようにして入り口に立った。
奥の卓には、すでに沈河俊が座っていた。
「ドユン、外出を控えるように言ったはずだが」
冷徹なハジュンの声。だが、道允はそれを笑って受け流した。
「それより、ハジュン。見てくれよ、こいつを。高句麗にまだこんな『岩』が残ってるとは思わなかった」
ハジュンはチョルスを射抜くような目で見つめた。チョルスもまた、杯に手をかけることなく、ハジュンの奥底にある覚悟を測るように見返した。
「鄭哲洙だ。……お前たちの噂は、街の隅っこで嫌というほど聞いた」
「鄭哲洙。お前はなぜ、あの老婆を助けた」
ハジュンの問いに、チョルスは短く答えた。
「……腹が立った。それだけだ」
ハジュンはその答えに満足したのか、自ら杯に酒を注ぎ、チョルスへ差し出した。
「打算のない怒りは、この腐った都で最も価値のある宝石だ。俺たちは、その怒りを集めて、王宮を焼き尽くす炎にしたいと考えている。お前の拳、民のために貸す気はあるか」
チョルスは道允の瞳を見た。そこには、暗闇を照らすような一点の曇りもない熱がある。
彼は大きな手で杯を掴み、一気に飲み干した。
「……俺は不器用だ。壊すことしかできん」
「上等だ。まずはこの腐りきった秩序を壊すことから始める」
道允が笑い、三人の手が卓の上で重なった。
夜の帳が降りる頃、チャン家の酒場からは、これからの戦いを予感させる低い笑い声が漏れていた。
針、知略、そして巨岩。
欠けた歯車が噛み合い、高句麗の歴史を書き換える巨大な機構が、ついに動き出そうとしていた。




