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暁の王朝  作者: 水前寺鯉太郎
暁の王朝

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22/22

散る花、あるいは不滅の朝


 1398年、秋。朝鮮北部、多伐嶺タバルリョンの激戦から逃れた五百の残兵は、洪家村を見下ろす名もなき丘に陣を張った。

 官軍の軍靴の音は、すぐ背後の谷間まで迫っている。もはや、逃げ場はない。

 道允ドユンは天幕を回り、傷ついた仲間たちの顔を一つずつ、網膜に焼き付けるように見渡した。

「……止めても、無駄なのだろうな」

 血に染まった布を腕に巻いたチョルスが、静かに隣に立った。かつて「不落の盾」と称えられた巨体は、今は無数の傷に削られ、それでも岩のようにそこに在った。

「ああ。俺が行かねば、兵は止まらん。……お前は残れ、チョルス。ハジュン兄貴を頼む」

「……断る。俺の盾は、お前の背中を守るためにある」

 チョルスは短く答え、折れた長槍を杖にして立ち上がった。その一言に、二十余年の沈黙の重みがすべて込められていた。

 そこへ、河那ハナが湯気の立つ碗を持って現れた。彼女の目は赤く腫れていたが、口角を上げ、いつもの豪快な笑みを無理に作っていた。

「道允、腹は減ってないかい。……最後くらい、あたしの飯を食っていきな」

 差し出されたのは、何の変哲もない麦飯と塩辛だった。かつて義賊の根城で、あるいは戦場の泥の中で、何度も口にした「生」の匂い。

「お前の飯は、いつだって世界一だった。……だが、今は腹より心が一杯だ。それは、勝って帰った時の楽しみにしておく」

「……嘘つき。あんた、昔から嘘が下手だよ」

 河那は笑い、そのまま碗を地面に落とした。崩れ落ちる彼女を、寡黙な道俊ドジュンが無言で支える。道俊はただ一度、道允と目を合わせ、深く、深く頭を下げた。言葉など、もう一文字も必要なかった。


 道允は、一番奥の天幕へと足を進めた。

 そこには、死の淵を彷徨うハジュンが横たわっていた。承浩スンホが必死に薬草を調合し、その傷口を塞ごうとしている。

「……道允か」

 ハジュンが、幽かな、しかし驚くほど澄んだ声で呼んだ。

 道允はその傍らに膝を突き、その細くなった手を握りしめた。

「ハジュン兄貴。……あんたには、苦労ばかりかけたな」

「……ああ。手のかかる弟だった。……市場で油売りの若造と手を握り合ったあの夜から、お前は一歩も引かなかったな」

「あんたがいなければ、俺はただの野垂れ死にだった。あんたの知恵が、俺をここまで連れてきてくれた」

 ハジュンは薄く笑った。その瞳には、かつて大同江を渡る船の上で見上げた、あの希望に満ちた月光が宿っているように見えた。

「……先に行け。俺も、すぐに行く。……だが、向こうでは『軍師』は引退させてもらうぞ。ただの、兄貴としてな」

 道允は頷き、天幕を出た。振り返れば、己の決意が霧散してしまうことを恐れるように、真っ直ぐに前だけを向いた。


 昼前、官軍の総攻撃が始まった。

 五百の民兵は、私学校で学んだ若者たちを中心に、鉄の結束で応戦した。彼らが振るうのは、王宮から支給された武器ではない。自分たちの田畑を守るために、道允から教わった「自立」という名の牙だった。

「民の明日を、誰にも奪わせるな!」

 道允の声が、秋の原野を震わせる。

 五十四歳の体には、高句麗打倒の傷、建国の汗、そして王宮で見失いかけた民への愛が刻まれている。腕は鉛のように重いが、一太刀振るうごとに、かつて油を売り歩いた街道の景色が脳裏を駆け抜けた。

 午後。黒装束の抜刀隊が死神のように現れた。

 チョルスが咆哮を上げ、その中心に飛び込んだ。一閃、また一閃と抜刀隊の刃が彼を削るが、チョルスは倒れない。彼は「盾」であることをやめ、自らが「防壁」そのものと化した。

 その隙を突いて、道允が敵陣の深奥へと突き進む。十人を斬り、二十人を払い、道允の視界は次第に真紅に染まっていく。

 やがて、衝撃が道允の体を貫いた。

 膝が地面を叩く。激しい息遣い。

 道允は倒れ込むように土を掴んだ。掌に伝わる秋の土の冷たさ。

(……ああ、この冷たさだ。俺がずっと、守りたかったのは……)

 空を見上げた。

 どこまでも高く、残酷なまでに青い、朝鮮の空。

 老婆の震える手、夜逃げする家族の背中、私学校で笑う子供たちの顔。それらすべてが、走馬灯のように秋風に舞う。

「……ソジュン。俺は、お前に、勝てたかな……」

 道允はかすかに微笑み、静かに、ゆっくりと、その重い瞼を閉じた。


 三日後。平壌城の王宮は、重苦しい沈黙に包まれていた。

 トシゾウが、血の跡が乾いた一枚の報告書をソジュンの前に置いた。

「……散リマシタ。洪道允、ソレニ、チョルス、道俊……全員デス」

 ソジュンは文書を手に取った。文字が滲んで見えない。

 王になってから、一度も垂れることのなかった彼の肩が、初めて弱々しく崩れ落ちた。

 窓の外には、道允が最期まで愛し、ソジュンが命を削って統治した平壌の町が広がっている。

 民は今日も生きている。税に喘ぎ、兵役に嘆きながらも、それでも力強く、明日へと歩いている。

「……道允。お前が言った通りだな。国は、俺たちが作ったんじゃない。あの、泥の中にいる者たちが……作っているんだ」

 ソジュンは窓枠を指が白くなるほど握りしめた。

 そこには、かつて道允が届けた一本の「針」があった。

 ソジュンはその針を、自らの胸元にそっと当てた。チクリとした小さな痛みが、彼に「王」であることの罪と、一人の「友」であったことの証を刻みつける。


 洪道允。享年五十四歳。

 歴史の表舞台からは「反逆者」として消されたその名は、しかし、北の地の深い地層に刻み込まれた。

 生き残ったウンソク、ウンシル、そして承浩たちは、道允の教えを携えて各地へと散った。

「学んだことを、誰かのために使え」

 その一見単純な言葉は、数百年の時を超え、朝鮮の精神的な背骨となっていった。

 晩年。死の淵に立った李昭俊は、枕元に集まった臣下たちに、最後にこう問われた。

「陛下。建国の功臣、知勇の将、名だたる英雄がこの国を支えました。陛下にとって、最も忘れ得ぬ『友』は誰でしたか」

 ソジュンは、もはや光を失いつつある目で、窓の外――はるか北の空を見つめた。

 そこには、かつて二人が夢見た、朝の鮮やかな光が満ち溢れていた。

「……針売りだ」

 ソジュンは微笑んだ。

「俺から一番高い油を買い、俺に一番折れない針を売った……ただの、針売りだよ」

 その言葉と共に、李氏朝鮮の初代王はその生涯を閉じた。

 王宮の外では、新しい朝が始まろうとしていた。

 民の手に握られた針が、一針一針、未来という名の衣を縫い合わせる音が聞こえてくるようだった。

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