多伐嶺(タバルリョン)、散りゆく知謀
1398年、夏。朝鮮北部、多伐嶺。
そこは、山が天を衝き、道が糸のように細くなる、死神の喉元のような場所だった。
「……ハジュン兄貴。ここが、俺たちの墓場になるのか」
道允の問いに、ハジュンは地図を静かに畳んだ。その指は微かに震えていたが、目はかつてないほど澄んでいた。
「墓場ではない。新しい時代へ送るための、産屋だ」
官軍千二百。その殿に控えるのは、漆黒の闇を纏った「抜刀隊」だった。
彼らが斜面を滑り降りてきた瞬間、空気の温度が数度下がった。長い刀が弧を描くたび、私学校の生徒たちの若き命が、火花と共に散っていく。
右斜面の雑木林。
そこには、戦場の喧騒を撥ね退けるような、奇妙な静寂があった。
ハジュンと、サイゾウ。
二人は剣を構えたまま、数秒間、互いの「脳」を斬り合っていた。
(……右か。いや、地勢を利用した左への誘いか)
(……沈殿。貴殿なら、私のこの一太刀を、どう受ける?)
言葉は要らなかった。かつて同じ卓を囲み、高句麗を倒したあの夜の記憶が、今は殺意となって火花を散らす。
「――いざ!」
サイゾウの叫びと同時に、二人の影が交錯した。
肉を断つ音が二度。
ハジュンの肩にサイゾウの刃が食い込み、ハジュンの剣はサイゾウの脇腹を深く抉っていた。
「……見事だ、サイゾウ。……お前の策通り、俺は……ここで止まる」
ハジュンが膝を突く。サイゾウもまた、血の海の中に崩れ落ちた。
知を競い合った二人の天才が、今は泥にまみれ、一人の「生き物」として死の淵を彷徨っていた。
「兄貴ッ!」
道允の咆哮が、多伐嶺の谷間に木霊した。
重傷を負ったチョルスを肩に担ぎ、瀕死のハジュンを抱え上げる。
夕闇の中、官軍の松明が、獲物を囲い込む獣の目のように光り始めた。
「引くぞ! 全員、泥を舐めてでも生き延びろ!」
道允は、血に濡れたハジュンの手を握りしめた。
針を売り、油を売り、夢を語り合ったあの若者たちの姿は、もうどこにもない。
あるのは、雨に濡れ、血に汚れ、それでも「民の明日」を信じて退却を続ける、ボロボロの英雄たちの背中だけだった。
1398年、夏。
朝鮮の黎明を告げるはずだった暁光は、今、多伐嶺の深い闇の中に飲み込まれようとしていた。




