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暁の王朝  作者: 水前寺鯉太郎
ドユン編

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2/22

血よりも深く

肺が焼ける。

 足裏を叩く石畳の衝撃が、脳髄まで突き刺さる。

 洪道允ホンドユンは、平壌の迷路のような路地を、獣の速さで駆け抜けていた。

 背後から、怒号と蹄の音が迫る。

「逃がすな! 官吏殺しの重罪人だ!」

 その声が聞こえるたび、道允の指先がかすかに痙攣した。拳には、まだ先ほど砕いた顎の感触と、温かい粘り気のある液体が残っている。

(……殺した。俺が、この手で)

 後悔はない。だが、自身の内側から溢れ出す得体の知れない震えを、走ることで無理やり押さえつけていた。頭上を横切る洗濯物、積み上げられた肥桶の悪臭。それらすべてが、自分を追い詰める罠に見えた。

 道允はわざと入り組んだ貧民窟へと飛び込んだ。役人の馬が入れぬ狭隘な路地。そこを泥を跳ね飛ばしながら進み、一軒の朽ちかけた木造家の裏口へ、倒れ込むように滑り込んだ。

 闇の中で、鍵が外れる音がした。

 現れた沈河俊シムハジュンの顔は、月明かりを浴びて青白く、幽霊のようだった。

 道允の荒い呼吸、肩の揺れ、そして拳にこびりついた赤黒い汚れ。ハジュンはそのすべてを一瞬で視認し、瞳の奥に鋭い光を宿した。

「……入れ。光が漏れぬよう、戸を閉めろ」

 家の中は、煤けた行灯が一つ灯っているだけだった。

 道允は卓に手をつき、肺に溜まった泥のような空気を吐き出した。

「すまない、ハジュン。お前を……巻き込むつもりはなかった」

「今さらだ。俺とお前の仲で、巻き込むも巻き込まれるもあるか」

 ハジュンは淡々と答えた。だが、その手は手際よく水桶を持ってくると、道允の拳に冷や水を浴びせかけた。

「キム爺さんの娘だろう? 市場で騒ぎがあったと聞いた。……やったのか」

「ああ。……あいつらは、人間じゃなかった。娘を物のように扱い、踏みにじった。気づけば、手が動いていた」

 血が水に溶け、薄赤く広がっていく。道允はその光景を、他人事のように眺めていた。

「死罪だな」

「ああ、死罪だ。お前は今日から、この高句麗の敵だ」

 ハジュンが布で道允の拳を強く拭った。その手の熱さに、道允は初めて現実に引き戻された。

「逃げるか、ドユン」

「逃げて、どこへ行く? 針売りとして他国へ逃れ、またそこで民が踏みにじられるのを見て見ぬふりをするのか」

 道允は顔を上げた。瞳には、逃亡者の怯えではなく、燃え盛るような意志が宿っていた。

「ハジュン。昨日、お前は言った。北の村では娘たちが奪われていると。……この国は、もう骨の髄まで腐っている。一部の腐った枝を切り落としても、根が腐っていればまた毒が芽吹く」

「……」

「俺は、戦う。この針一本でできることは知れている。だが、針を束ねれば、この歪んだ国を縫い直すことくらいはできるはずだ」

 ハジュンは深く息を吐き、静かに立ち上がった。棚の奥から取り出したのは、埃を被った古い酒瓶と、二つの不揃いな杯。

「……俺の妻はな、ドユン。役人の息子に凌辱され、自ら命を絶った」

 道允の息が止まる。ハジュンがその過去を口にしたのは、初めてだった。

「訴状を書いた。法に頼ろうとした。だが、役所は俺の声を紙切れのように破り捨てた。俺は無力だった。法も知性も、権力という刃の前では無意味だと悟った」

 ハジュンは杯を一つ、道允の前に置いた。

「お前が今日やったことは、俺が数年前にやるべきだったことだ。無謀で、計画性もなく、救いようのない馬鹿の仕業だ」

 自嘲気味に笑い、ハジュンは自分の杯に安酒を満たした。

「だが、その『馬鹿』がいない限り、この国に明日は来ない。……道允、お前がその道を行くなら、俺は知恵を貸そう。お前が剣となるなら、俺は鞘となり、地図となろう」

 二人の視線がぶつかり合う。

 ハジュンは、自身の指先を少し噛み、滲んだ血を酒に一滴、落とした。

「高句麗の古き誓いだ。血を分け、志を一つにする。今日から俺たちは、血を分けた実の兄弟よりも深く結ばれる」

 道允も迷わず、己の指を噛んだ。

 二つの血が、濁った酒の中で混じり合う。

「死ぬときは、一緒だ。兄貴」

「ああ。だが、簡単には死なせん。俺がこの国を、お前のために書き換えてやる」

 不揃いな杯が触れ合い、低い音が室内に響いた。

 外では再び、遠くで蹄の音が聞こえる。だが、もう道允の拳は震えていなかった。

 夜が明け始める頃、ハジュンは机の上に古い地図を広げた。

「まずは、組織を作る。平壌の地下には、俺と同じように朝廷を恨む者たちが潜んでいる。彼らに接触し、お前という『火種』を見せるんだ」

「わかった。俺にできることなら何でもやる」

「いいか、道允。これからは針を売るんじゃない。希望を売るんだ。この腐った世が、ひっくり返るという希望をな」

 ハジュンの言葉に、道允は力強く頷いた。

 朝日が、古びた家の隙間から差し込む。それは、二人の反逆者が歩み始める、血塗られた、しかし輝かしいみちを照らしていた。

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