下野、野に吹く決別の風
1395年、春。
平壌を彩る桜は、道允の目には、散りゆく民の命の破片に見えた。
「……音がねえんだ。ハジュン兄貴」
北の農村。かつて豊穣を祝う声が響いていた大地は、今や老人の咳と、重い鍬を振るう女たちの溜息に支配されていた。
兵役。徴収。防衛。
ソジュンの言葉は正しい。だが、その正しさが、この老婆の濁った瞳を作っている。
(俺たちは、こんな顔を見るために王宮を血で染めたのか)
道允は、その場で泥だらけの着物を脱ぎ捨てた。豪華な刺繍が施された右将軍の官服が、春の泥にまみれる。その懐には、あの老針売りが遺した最後の一本が、冷たく、しかし鋭く光っていた。
平壌城、謁見の間。
扉が開く音さえ、今日のソジュンには刃のように鋭く聞こえた。
「下野……。本気か、道允」
「ああ。ソジュン、お前は立派な王になった。国を守るために、冷徹に数字を数えられる王にな」
道允の言葉に、ソジュンは窓辺で拳を握りしめた。
「俺は数えるのが苦手だ。俺に見えるのは、数字じゃない。息子を奪われた老婆の、あの指の震えだけだ。……俺は、あの震えを止めるために針を持ったんだ」
「……俺は間違っているか、道允」
「いいえ。あなたは正しい。……だが、俺はあなたの正しさに殺される民を、放ってはおけない」
二人の間に、二十四年の歳月が砂のように零れ落ちた。
ソジュンが差し出した手は、王の権威ではなく、かつて市場で酒を酌み交わした「油売り」の温もりを持っていた。
「……いつか、また会えるか」
「俺たちが、本当の『新しい朝』を見つけた時にな」
翌朝、平壌の城門をくぐる一行があった。
巨大な盾を背負ったチョルス。静かに抜刀の感触を確かめるトシゾウ。そして、多くの書物を抱えたハジュンとサイゾウ。
「道允さん、次はどんな塾を作るんだい?」
河那が明るく声をかけるが、その瞳には覚悟の光が宿っていた。
「学問と、武術だ。国に頼らず、自分たちの足で立てる民を育てる」
道允は一度だけ、遠ざかる平壌城を見上げた。
あの高い城壁の中に、友を置き去りにしてきた。王座という名の檻に囚われた、孤独な友を。
「……行こう」
道允は前を向いた。
王宮から消えた光が、今度は野の草木を照らし始める。
高句麗から朝鮮へ。
英雄たちの物語は、今、真の意味で「民草の物語」へと変貌を遂げようとしていた。




