針売りの義侠
高句麗の空は、その日も突き抜けるように青かった。だが、その青さは空腹に喘ぐ民にとっては、突き放すような冷たさを含んでいる。
漢城の北、平壌。
市場は朝から、泥にまみれた熱気に包まれていた。傷んだ菜っ葉を並べる老婆、干からびた魚を担ぐ若者。人々の顔には、明日の食い扶持への不安が、深い皺となって刻まれている。その淀んだ空気の隙間を、一人の青年が泳ぐように抜けていった。
洪道允、24歳。
腰に下げた小ぶりな木箱が、歩みに合わせて乾いた音を立てる。中には、長さも太さも異なる数百本の針が、まるで兵士のように整然と並んでいた。
「針はいらんかね。折れず、曲がらず、衣の綻びを綺麗に縫い留める。人生の綻びは直せんが、服くらいは俺が面倒見てやるよ」
道允の声は、市場の喧騒に埋もれることなく、人々の耳に滑り込んだ。精悍な顔立ちに、茶目っ気のある笑み。しかし、客と目が合う一瞬、その瞳は相手の手のタコや衣服の擦り切れ具合、そして栄養不足で黄色く濁った白目を、精密機械のように捉えていた。
「お兄さん、1本くれないかい。孫の着物がもうボロボロでね」
「ああ、おばあさん。これなら細くて丈夫だ。……代金? いいよ、その干し柿1個と交換だ。俺も腹が減っててね」
重税に喘ぐ民から、まともな銭をふんだくる気にはなれなかった。道允にとって、針を売ることは、この国の腐敗がどこまで進行しているかを測る「検診」に近い。
日が落ち、街に獣のような闇が忍び寄る頃、道允は馴染みの茶屋の端に腰を下ろした。向かいでは、すでに一人の男が、濁った酒を見つめている。
沈河俊。25歳。かつては朝廷の文官を志した秀才だが、今はその知性を隠し、影の中で生きる男だ。
「……また、北の連中が逃げ出してきたぞ」
ハジュンが、低い声で切り出した。杯を持つ指が微かに震えている。
「賦役に従事していた村の男たちが、過労で3人死んだ。残された家族には、埋葬の許可すら出ず、代わりに徴収官が娘を連れ去ったそうだ」
道允は無言で酒を煽った。喉を焼く安酒が、胸の奥の怒りに火をつける。
「王は何をしている」
「寵姫の誕生祝いに、西域から取り寄せた琥珀を100斤、宮殿に敷き詰めさせているそうだ。民の血を固めて作った琥珀をな」
二人はそれ以上、言葉を重ねなかった。語るべき言葉は、とうに枯れ果てている。あるのは、この国を蝕む巨大な病への、絶望に近い殺意だけだった。
翌朝、道允を待ち受けていたのは、いつもの喧騒ではなく、冷え切った沈黙だった。
市場の中央、二騎の馬が民を睥睨している。革鎧を軋ませ、腰の湾刀を誇示するように揺らす官吏たち。
「納税の期限は三日過ぎた。出せぬと言うなら、この娘で補填させてもらう」
官吏が、薄汚れた革靴で一人の老人を蹴りつけた。豆腐売りのキムだ。その傍らで、まだ幼さの残る娘が、獣に睨まれた子羊のように震えている。
「……そんな、娘はまだ15です。どうか、あと少しだけ……!」
「黙れ。こいつは宮中の洗濯女にでも売れば、ちょうど不足分になる」
官吏が冷酷に命じると、兵が娘の髪を掴んで引きずり回した。娘の悲鳴が、乾いた市場の空気に響き渡る。周囲の民は、ただ地面を這う蟻を見つめるように、深く首を垂れていた。ここで声を上げれば、次が自分たちの番であることを知っているからだ。
だが、道允の足は、すでに一歩前へ出ていた。
頭で考えたのではない。右手の指先が、商売道具の木箱の縁を、無意識に叩いていた。
「おい。その汚い手を放せよ」
凍りついた空間に、道允の声が通った。
官吏が怪訝そうに振り返る。そこに立っていたのは、一人の、どこにでもいる針売りだった。
「何だと? 貴様、命が惜しくないのか」
「命は惜しいさ。だがな、お前たちのその汚い面を見るのは、死ぬより苦痛なんだよ」
官吏の顔が怒りで赤黒く染まった。
「殺せ」
兵が二人、剣を抜き放ち、道允へ躍りかかる。
道允の目が、一瞬で「商人のそれ」から「捕食者のそれ」へと切り替わった。
一歩、踏み込む。
先頭の兵が振り下ろした剣を、道允は紙一重でかわすと、その懐に滑り込んだ。手には、いつの間にか一本の太い「畳針」が握られている。
――ッ!
声にならない悲鳴が漏れた。針は正確に兵士の肘の神経を貫き、剣が音を立てて石畳に落ちた。間髪入れず、二人目の首筋を掌底で打ち据える。
馬上の官吏が、信じられないものを見る目で道允を凝視した。
「貴様……、ただの針売りではないな……!」
「言ったはずだ。針売りだよ」
道允は地面に落ちた剣を拾うことすらしない。ただ、冷徹なまでの静けさを湛えた瞳で、官吏を見据えた。
「綻びを見つければ、繕わずにはいられない性質でね。お前のようなこの国の『破れ』は、少し荒っぽく縫い合わせる必要があるらしい」
その日、平壌の市場を駆け抜けた衝撃は、瞬く間に国中へと広まることになる。
一人の針売りが、高句麗という巨大な歴史の壁に、最初の「穴」を開けた瞬間だった。




