第51章:白亜の狼の伝言、あるいは蘇る鳥籠
シュバルツ領、第7開拓村。
カグツチの巨大な左腕が最後の一機を沈め、村の広場に静寂が戻った。
だが、カイの視線は、雪原を這いずるようにしてこちらへ向かってくる、血まみれの男に釘付けになっていた。
「……ウラジミール、卿……」
カイはハッチを開け、K-Link の排気音を鳴らしながら雪原へ飛び降りた。
北嶺の雪山で別れたあの気高い姿は見る影もない。法衣は裂け、凍傷と無数の斬り傷で全身がボロボロだ。彼は教国へ戻り、内側から国を変えると言っていたはずだ。
その彼が、なぜ大陸を横断してこんな北東の辺境にいるのか。
「カイ……ッ! 近づくな!」
バルガスがテツカブラから身を乗り出して制止しようとしたが、カイは構わず男の元へ駆け寄り、その凍りついた身体を抱き起した。
「ウラジミール卿! しっかりしろ! 一体何があったんだ、教国で何が……!」
「……が、はっ……」
ウラジミールは、濁った血を吐き出しながら、焦点の合わない青い瞳でカイを捉えた。
その瞳の奥には、彼が信じてきたすべてを理不尽に踏みにじられた、底知れぬ恐怖と絶望が張り付いている。
「……逃げろ、一条……魁……。お前は……この世界に、いてはならない……」
「え……?」
「教国は、終わった。……いや、すでにこの大陸が、あの怪物の『糸』に絡め取られようとしている……」
ウラジミールは、凍りついたカイの腕を、骨が軋むほどの力で握りしめた。
「……私を、操り人形に変えようとした……あの、極彩色の怪物……。彼女は、自らをこう名乗った。……『一条、澪ミオ』と」
――ドクン。
その名前を聞いた瞬間。
カイの心臓が、早鐘のように打ち鳴らされ、そしてピタリと凍りついた。
(……え?)
雪原の冷たさも、オイルの匂いも、バルガスの声も、すべてが遠のいていく。
視界が、真っ白なノイズに塗り潰される。
脳裏にフラッシュバックするのは、あの清潔で、息が詰まるほど甘い花の香りがする、一条家の薄暗い自室。
『……ふふ、また食べ残してる。ダメじゃない、カイ。……今のあなたの、その絶望に染まった瞳。世界中で私だけが、それを見ていられる』
折れた右膝を、愛おしそうになぞる白磁のような指先。
カイの血を吐くような努力を、一瞥でコピーし、凌駕してみせた無慈悲な天才。
足を奪われ、外に出ることも許されず、ただ彼女の「壊れた人形」として生きることを強要された、あの一年間の地獄。
「あ……ああ、あ、ぁぁ……ッ!!」
カイは喉を掻きむしり、雪の中に倒れ込んだ。
過呼吸。
空気が肺に入ってこない。治ったはずのない生身の右膝が、幻痛に焼かれて激しく痙攣する。外付けの K-Link が、カイの異常な筋肉の収縮を感知して、ガガガガッ! と不快な警告音を立てた。
「おい、カイ!? どうした坊主、息をしろ!」
バルガスが駆け寄るが、カイの耳には届かない。
(逃げ切れて、いなかった。……姉さんは、この狂った世界にまで、僕を追ってきたんだ……!)
また、あの鳥籠に閉じ込められる。
この不自由な足を撫でられながら、一生、彼女の支配下で――。
「……ダメだ……嫌だ……! 僕は……ッ!!」
カイの心が、暗い泥濘の底へと完全に沈みかけた、その時だった。
『――カイ』
雪の上に倒れ込むカイの背中を、ふわりと、小さな温もりが包み込んだ。
実体化したリトだ。
彼女は、泥で汚れることなど気にも留めず、カイの背中に回した腕にギュッと力を込めた。
『……思い出して。あなたはもう、一人で足を引きずっていた頃の「一条魁」じゃないわ。……あなたの足は、ここにある』
リトの言葉に呼応するように、背後のカグツチが、ヴォンッ、と力強い排気音を鳴らした。
カイと神経を同期させている赤い巨神の、確かな「心音」。
『私がいるわ。ロキが作ったこの鉄のバネがあるわ。バルガスが、シエラが、ギリアスがいる。……もう、誰の鳥籠にも、あなたを戻させはしない!』
「……リ、ト……」
カイは、ゆっくりと目を見開いた。
目の前には、エレナに連れられて、雪原の向こうの森へと必死に避難していく村人たちの姿がある。
姉の支配から逃げるためだけに、ここへ来たんじゃない。
自分は、この世界で、この足で立って、誰かを護ると決めたんだ。
「……はぁっ、はぁっ……。……そうだ」
カイは、雪を強く掴み、K-Link の油圧の助けを借りて、立ち上がった。
まだ足は震えている。姉の狂気に対する根源的な恐怖が消えたわけじゃない。
だが、その恐怖をねじ伏せるだけの「熱」が、今のカイにはあった。
「ウラジミール卿」
カイは、意識を失いかけている騎士の肩を叩いた。
「伝言、確かに受け取った。……ありがとう。あんたは、教国がどうなろうと、やっぱり立派な騎士だ」
カイは彼をバルガスに預けると、カグツチのコックピットへと振り返った。
「バルガスさん! ウラジミール卿をスキフに乗せて、ガンドック号へ!」
「おう! だが坊主、お前はどうする気だ!」
「……シエラさんが言ってた『第三の殻』。あの《鋼の翼》があれば、カグツチの右腕のバランスは完全に制御できるんだよね?」
通信機越しに、シエラの緊迫した声が響く。
『……カイ、まさか。今すぐこの領地を離脱するわよ。さっき、帝都方面から、帝国の正規軍の主力がものすごい速度でこちらへ向かっているという情報をキャッチしたわ。……おそらく、西方防衛線から反転してきた「白銀騎士団」よ』
「だからだよ、シエラさん」
カイは、カグツチに飛び乗り、操縦桿を握りしめた。
「今の僕じゃ、姉さんの……あの化け物の糸は断ち切れない。リトを完全にして、もっと速くならないと。……帝国軍が到着する前に、僕が一人で『氷刃の谷』へ行って、翼を回収してくる!」
『無茶よ! 吹雪の谷の最奥よ!?』
「行くよ。……僕はもう、二度と立ち止まらないって決めたんだ」
カイの瞳に宿る、黄金の光。
それは、過去の呪縛を断ち切るための、悲壮なまでの決意だった。
『……分かったわ。……バルガス、急いで撤収準備! カイ、座標はカグツチに転送する。回収したら、そのまま北の国境線で合流よ! 止まったら死ぬわよ!』
「了解!!」
カグツチの胸部コアが、周囲の雪を吸い込み、爆発的なスチーム・ブーストを噴射する。
深紅の巨神は、村人たちとガンドック号に背を向け、白銀の英雄が迫るシュバルツ領の最奥――『氷刃の谷』へと、ただ一機、弾丸のように駆け出していった。
カイが村を去ってから、わずか数十分後。
焼け焦げた第7開拓村の広場に、地鳴りのような駆動音を響かせて、血に塗れた白銀の大剣を構えた『シュネー・ヴァイス』が降り立った。
ユーゴー・フォン・シュバルツの帰還。
だが、そこには彼が追うべき「赤い機体」の姿は、すでにどこにもなかった。




