第45章:崩落の天秤、あるいは白銀の決断
神聖アルカディア帝国、帝都中枢。
国家の心臓部たる超大型魔導演算回路が壁一面を覆う大戦略室は、かつてないパニックと、血を吐くような絶叫の渦に呑み込まれていた。
「西方防衛線、第3から第8ゲートまで完全に沈黙! 敵の侵攻速度、演算予測の四百パーセントを超過!!」
「南部の工業都市群で同時多発的な武装蜂起! 駐留軍の魔導リンクが何者かに強制ジャックされ、同士討ちを始めています!」
「通信途絶! ダメです、全土の魔導ネットワークに未知の『極彩色のノイズ』が混入! 指揮系統、完全に麻痺ッ!!」
絶え間なく鳴り響くけたたましいエラー音。帝国の絶対的な版図を示す巨大なホログラムマップが、まるで血の海に沈むように、次々と「陥落」の赤色に塗り潰されていく。
「……あり得ない。こんな事象は、物理的にも数学的にもあり得ない」
指揮台の中央。
帝国の頭脳たる紅蓮の天才、カイゼル・フォン・プロシュタットは、滝のように流れ込んでくる膨大な絶望のデータを前に、生涯で初めて、その碧眼に明確な「恐怖」を滲ませていた。
彼が戦術を立案し、完璧な防衛の最適解を弾き出したコンマ数秒後には、敵はその「さらに三つ上の最適解」で帝国の陣形をすり抜け、あるいは無慈悲に粉砕してくるのだ。
「……私の演算が、一手どころか全て遅れている……? 帝国が誇るスーパーコンピュータの処理速度を、敵の指揮官は『生身の思考』で凌駕しているというのか……!?」
カイゼルが心血を注ぎ込んだ完璧な防衛式が、ただ一人の未知の怪物によって、幼稚園児の砂遊びのように踏みにじられていく。
「――カイゼル! 状況は!!」
ズガァァァンッ!!
戦略室の重い鉄扉が蹴り破られ、純白の軍礼装を血と潮風で汚したユーゴー・フォン・シュバルツが飛び込んできた。背後にはウルリッヒが鬼気迫る表情で続いている。
フリーポートから緊急帰還し、皇帝の査問会へ向かうはずだった彼は、帝都を覆う血生臭い空気にただならぬ事態を察知し、直接この中枢へと乗り込んできたのだ。
「……見ろ、シュバルツ。これが今の帝国の姿だ」
カイゼルは、血の気の引いた顔で真っ赤に染まったホログラムを指差した。
「わずか半日だ。たった半日で、帝国の国土の三割が機能不全に陥った。教国の軍勢は、まるで単一の巨大な『脳』に統率されているかのように、我々の防衛システムを内側から書き換えて進軍している」
「なんだと……?」
ユーゴーは息を呑んだ。
かつてシュバルツ領で死闘を演じたスカベンジャー・レイスの群体すら比較にならない、圧倒的で、冷徹で、そして悪意に満ちた「理」の侵略。
「あの狂った教皇にそんな真似ができるはずがない。……何者が、教国を動かしている!?」
「分からない。だが、相手は明確に『帝都』の喉首だけを狙っている」
カイゼルは操作盤を叩き割るような勢いで打ち込み、一つの巨大な防衛線をマップに浮かび上がらせた。
「西方最大の要衝、『黒鉄の峡谷』。……ここに教国の主力数万が殺到している。ここを抜かれれば、帝都までは防壁のない平原が広がるのみだ。三日でこの国は滅ぶ」
そこへ、顔面を蒼白に引き攣らせた伝令官が転がり込んできた。
「カ、カイゼル閣下、シュバルツ卿! 皇帝陛下より勅命です! 両名および直属の騎士団は、直ちに西方『黒鉄の峡谷』へ出撃し、教国軍本隊を死守せよとのことッ!」
「分かった。全軍を即座に――」
カイゼルが応じた直後、伝令官は絶望的な宣告を口にするように視線を落とし、ユーゴーを見た。
「……さらに、最悪の報告が。……北東の『シュバルツ辺境伯領』にも、教国の別働隊が侵攻を開始。……敵の数は未知数ですが、先ほどの通信を最後に、シュバルツ領からの魔導波形反応は……完全にロストしました」
「…………は?」
ユーゴーの頭が、真っ白に爆ぜた。
全身の血が逆流する。
シュバルツ領。
厳格だが誰よりも領民を愛する父が、慈愛に満ちた母が、そして――あの日、不器用な手で自分にマフラーを巻いてくれた最愛の妹・エレナがいる。
黒城勇吾としての過去を抱えた自分が、十六年間、血反吐を吐いて守り抜くと誓った「帰るべき故郷」。
そこが今、あの極彩色の化け物の軍勢に蹂躙されようとしている。
「……ウル! 白銀騎士団を直ちに北東へ反転させる! 俺の領地を――」
「待て、シュバルツ!!」
踵を返そうとしたユーゴーの腕を、カイゼルが力任せに強く掴んだ。
「陛下の勅命が聞こえなかったのか! 君の物理的な突破力は、西方防衛の唯一の要だ。君が抜ければ、峡谷の防衛線は一時間で崩壊し、帝都が落ちる!」
「放せ!! 俺の故郷が、エレナが焼かれているんだぞ!!」
「帝都が落ちれば、領地ごとすべてが終わるんだ!!」
常に冷徹だったカイゼルの、血を吐くような怒号が戦略室に響き渡った。
その碧眼には、論理と感情の狭間で引き裂かれそうになりながらも、国を背負う者としての残酷な覚悟が宿っていた。
「……君の父上は、この事態を察知し、領内のすべての通信帯域を西方防衛のための『ダミー信号』に転用して、自ら外との繋がりを断ったんだ。……自分が捨て駒になることで、君が西方へ向かうための時間を作ったんだよ!!」
「……父上が……?」
ユーゴーは、自らの震える両手を見つめた。
黒城勇吾として、一度は親友を壊し、すべてを失った。
この異世界で、ようやく手に入れた「愛する家族」。それを今、この手で切り捨てなければ、帝国という巨大な船が沈み、父の決死の覚悟を無駄にすることになる。
特務騎士としての重責と、一人の兄としての絶望が、ユーゴーの魂をギリギリと引き裂いていく。奥歯を噛み砕くほどの力で食いしばった口元から、一筋の血が滴り落ちた。
「……若」
背後で、ウルリッヒが静かに、だが岩のように揺るぎない声で言った。
「大旦那様を信じましょう。あの方は、帝国最強の盾。そう簡単に抜かれるような柔な方ではありません」
ユーゴーは、目を強く閉じ――そして、見開いた。
その薄紫の瞳からは迷いが消え、凍てつくような、絶対零度の「殺意」だけが残っていた。
「……分かった。西方へ向かう」
ユーゴーはカイゼルの腕を振り払い、腰の儀礼剣の柄を壊れるほど強く握りしめた。
「だが、カイゼル。この動乱を操っているバケモノの首は、必ず俺が獲る。……俺から『帰る場所』を奪おうとした罪、その身で払わせてやる」
帝国の双璧が、燃え盛る西方の空へと向けて出撃する。
白銀の英雄は、振り返ることなく、最愛の故郷を背にして死地へと向かった。
一方その頃。
通信が途絶え、教国の狂気的な侵攻の前に孤立無援となった北東のシュバルツ領。
その海岸線に広がる緩衝地帯に、一隻の鉄屑の船――ガンドック号が、静かに上陸を果たしていた。
彼らはまだ知らない。
この上陸が、白銀の英雄が血の涙を流して捨てざるを得なかった「希望」を繋ぐ、運命の邂逅への第一歩であることを。




