第五幕 エピローグ後編:葛藤
自由貿易海洋都市の港に接岸した、神聖アルカディア帝国の巨大な鋼鉄艦。
その最上層にある豪奢な特務騎士専用の私室で、ユーゴー・フォン・シュバルツは、軍礼装の窮屈な襟元を乱暴に引き剥がし、革張りのソファに深く沈み込んでいた。
「――報告します。スチームの爆発による海流の乱れと、意図的な魔導ジャミングにより、『紅の亡霊』および母船の航跡は完全にロスト。……我が白銀騎士団の失態です。いかなる処分も……」
直立不動で頭を下げる副官ウルリッヒの報告を、ユーゴーは片手で制した。
「構わん。下がれ、ウル。一人になりたい」
「……はっ」
重い鉄扉が閉まり、完全な静寂が私室を満たす。
ユーゴーは、自らの両手を目の前にかざし、ゆっくりと表裏を返した。
分厚いマメと、幾重にも重なった無数の剣ダコに覆われた掌。それは、名門シュバルツ公爵家の御曹司が持つべき優雅な手ではなく、ただひたすらに鉄を振り続けた「武人」の手だった。
「……一条、魁」
ポツリと、前世の日本語がユーゴーの口からこぼれ落ちる。
黒城勇吾。それが、彼の魂の本当の名前だ。
ユーゴーは、自らが前世の記憶を持ったまま、この異世界に『転生』した存在であることを知っている。
気がつけば、赤ん坊として公爵家の天蓋ベッドで産声を上げていた。それから十六年。彼はこの世界で、一から肉体を作り上げ、帝国貴族としての人生を歩んできた。
莫大な魔力を持って生まれた彼は、周囲から「至高の魔法使いになる」と持て囃された。だが、ユーゴーはその期待をことごとく裏切った。
魔法など、どうでもよかった。
彼の魂にこびりついて離れなかったのは、前世の武道館の決勝戦で、無二の親友の膝が壊れた、あの絶望の音――『パキィィィン』という響きだけだったからだ。
あの瞬間、負けを確信した。しかし、親友はその場に倒れ込んで、勇吾は勝者となった。
親友の才能はその膝と共に無惨に砕けちり、納得のいかない決着が訪れた。
だからユーゴーは、自身の莫大なマナを一切魔法に変換せず、すべて肉体と機体の「物理的身体能力」の強化のみに全振りした。帝国最大の『タブー』を犯し、異端と蔑まれながらも、ひたすらに己の質量を磨き上げてきたのだ。
すべては、あの日の罪悪感を拭い去るために。
なのに。
「……どういう理屈だ。俺の未練が見せた、ただの都合のいい幻影か……?」
ユーゴーは、自らの震える右手を強く握りしめた。
オークション会場ですれ違った、黒スーツの少年。暗闇で交えた、異常に鋭い初速。
そして海上で、荒れ狂う波とスチームの遠心力を利用して襲いかかってきた、あの漆黒の太刀。
あの大剣を押し返してきた、デタラメで、けれど一切の無駄がない『極限の最短距離』。
あれは間違いなく、一条魁の剣理だった。
だが、理屈が合わない。
自分と同じように生まれ変わった(転生した)というなら、なぜあいつは、あの日自分が砕いた右膝のハンデを、義足という形で「そのまま」引き継いでいるように見えたのか。まるで、あの武道館のコートから、時間を跳躍して自分の前に現れたかのような……。
「……分からない。本当にあいつなのか。それとも、俺の狂気が生み出した都合のいい妄想なのか……」
ユーゴーはソファから立ち上がり、窓の外――白み始めた夜明けの海を、複雑な瞳で見つめた。
もしも。もしもあれが、本当にカイだったとしたら。
ユーゴーの胸の奥で、かつてないほどの純粋な「闘争心」が熱く沸騰するのを感じた。もう一度、あの天才と本気で剣を交えることができる。その歓喜に魂が震える。
だが、同時に――背筋が凍るような恐怖が、ユーゴーの足をすくませた。
「俺は……あの『重さ』で、あいつを斬れるのか……?」
十六年かけて鍛え上げた、魔法を完全に捨て去った絶対的な物理の質量。
それは皮肉にも、前世で親友の膝を砕いたあの日の重さとは比較にならないほどの、絶対的な「破壊の暴力」へと変貌してしまっている。
もし、全力で大剣を振り下ろせば。
今度こそ、あいつの命そのものを、粉々に砕いてしまうのではないか。
「……くそっ」
ユーゴーは、窓ガラスに額を押し当て、苦しげに目を閉じた。
極上のライバルとの再戦を渇望する武人の本能と、また親友を壊してしまう恐怖に怯える少年のトラウマ。
相反する二つの感情が、ユーゴーの魂を激しく引き裂いていた。
あの剣の感触は、本物だったのか。
俺は果たして、親友に向かって、この忌まわしい大剣を振り下ろすことができるのか。
夜明けの海を前に、白銀の英雄は、誰にも見せられない震えを抱えながら、静かに立ち尽くしていた。
【第五幕:海神の箱庭編・完】




