幕間:雪泥の狼、あるいは白亜からの逃亡
本日2話投稿です。先に第42章をお読みくださいませ。
肺が凍りつくような冷気と、鉄の味がする血の匂い。
ウラジミールは、雪に埋もれた教国下層の裏路地で、激しい嘔吐感と共に目を覚ました。
「……が、はぁっ……!」
全身の骨が悲鳴を上げている。天階閣テンカイカクの最上層からの落下。咄嗟にマナのクッションを展開し、幾つもの屋根を滑り落ちて衝撃を殺したとはいえ、無傷で済む高さではない。
左腕は不自然な方向に曲がり、肋骨は数本折れている。
万全の状態であったなら、高位の治癒魔導であっという間に塞いでいた傷だ。だが、今の彼のマナは完全に枯渇し、ただの「痛みを伴う肉の塊」として、残酷な現実を突きつけてきている。
(……動け。ここで立ち止まれば、死ぬぞ)
ウラジミールは雪を掴み、泥に塗れた顔を上げた。
見上げる白亜の巨塔は、月光を浴びて神々しく輝いている。だが、今の彼には、それが巨大な「蜘蛛の巣」にしか見えなかった。
一条澪。
あの一瞥で教国の最高術式を書き換え、枢機卿たちを操り人形に変えた極彩色の怪物。彼女の指先が紡ぐ狂気の糸は、すでにこの国全体を縛り上げているはずだ。
「――こちら第4班。反逆者ウラジミールの血痕を発見した。……まだ遠くへは行っていません」
「見つけ次第、神罰を下せ。教皇聖下の勅命である」
路地の向こうから、マナ・ランタンの青白い光と、規則正しい金属の足音が近づいてくる。
かつて彼が手塩にかけて鍛え上げた、聖騎士団の部下たちだ。
彼らの声には抑揚がなく、瞳の奥にはあの枢機卿たちと同じ、細いマナの糸が絡みついているのがウラジミールには想像できた。
(……もはや、彼らは彼らではない。あの女の『おもちゃ』だ)
ウラジミールは、折れた左腕を庇いながら、ゴミ箱の陰、泥と雪が混じる暗がりへと身を沈めた。
かつての彼なら、自らの正義を叫び、堂々と彼らの前に立ち塞がっていただろう。泥を被ることなど、騎士の誇りが許さなかった。
だが、今の彼が守るべきは「誇り」ではない。「命」だ。
一人の聖騎士が、ウラジミールが隠れる路地へと足を踏み入れる。
ランタンの光が、ウラジミールの足先を掠めた、その瞬間。
「……っ!」
ウラジミールは雪の中から獣のように飛び出した。
マナは使わない。ただの純粋な「体重移動」と「筋力」のみ。
彼は聖騎士が剣を抜くよりも早く、その懐へと潜り込み、柄頭で相手の顎を正確に、かつ無慈悲に打ち抜いた。
ゴフッ、とくぐもった音を立てて、聖騎士が膝から崩れ落ちる。
殺してはいない。ただ、確実な脳震盪で意識を刈り取った。
「すまない……。いつか必ず、呪いから解き放つ」
ウラジミールは倒れた部下から防寒用の外套マントを剥ぎ取り、自身の血まみれの法衣の上から深く被った。さらに、携帯用の止血帯と、わずかな保存食を奪い取る。
野盗と変わらぬ所業。
だが、彼の胸の奥で、ガンドック号のバルガスが豪快に笑う声が聞こえた気がした。
『綺麗事じゃ腹は膨れねえし、血は止まらねえぞ、騎士様よ』
「……ああ。全くだ」
ウラジミールは、奪った止血帯を折れた左腕にキツく巻きつけ、歯を食いしばって痛みを飲み込んだ。
追手は際限なく湧いてくる。
彼は下水道の汚泥の中を這い、巡回兵の目を欺くために自らの傷口に雪を詰め込んで熱源感知を誤魔化し、一晩かけて聖都の防壁を越えた。
かつて「最も清廉」と謳われた騎士の面影は、そこにはない。
あるのは、生き延びて、たった一つの伝言を届けるためだけに地を這う、一匹の泥に塗れた「狼」だった。
◇
翌朝。
聖都から遠く離れた、猛吹雪の雪原。
ウラジミールの足取りは、もはや限界を迎えていた。
奪った外套は凍りつき、感覚のない両足は、ただ機械的に前へと出されているだけだ。
背後には、教国が放った追撃の魔導機兵の影が、吹雪の向こうに幾つも瞬いている。
(……ここまで、か)
雪原に膝をつく。
視界が白く霞み、死という名の甘い眠りが、凍てついた身体を優しく包み込もうとしていた。
ここで眠れば、痛みからも、あの狂気の怪物への恐怖からも解放される。
――だが。
目を閉じた瞬間、彼の胃の腑の奥底で、何かがじんわりと熱を持った。
それは、魔導の炎ではない。
『……あんたの剣は真っ直ぐだった。それは確かだ。死んで逃げるのは、ガンドックの流儀じゃない』
あの時、鉄屑の船で飲まされた、塩辛くて、雑味だらけで、酷く熱かったスープの記憶。
たった一杯のスープが、凍りついたウラジミールの魂に、火をくべた。
「……あ、あぁ……」
ウラジミールは、雪に突き立てた右手に力を込め、再び立ち上がった。
彼の瞳には、死の誘惑を睨み殺すような、強烈な生の執着が灯っていた。
「私は……あの少年に、伝えねばならない……。過去が……本物の怪物が、お前の背中を追っていると……!」
東へ。
少年が向かった、あの深緑の樹海がある東へ。
ウラジミールは、迫り来る追手の光を背に受けながら、雪を噛み、泥を啜ってでも前へと進む。
白亜の騎士は死んだ。
だが、その残骸から這い出した一匹の狼は、必ずやその牙を、狂気の玉座へと届けるだろう。




