第42章:暗闇の交刃、あるいは前世の残響
すべての魔導灯が落ちたリヴァイアサン号の最下層は、完全な暗黒とパニックに支配された。
貴族たちの悲鳴、警備兵たちの怒号。グラスが割れ、豪奢なドレスが踏みにじられる混沌の中、カイはただ一つ「静寂」を保っていた。
『カイ、目標のコンテナまで直線距離三十メートル。障害物多数。……ルート、私の演算でナビゲートするわ!』
「頼む、リト!」
カイは右足の踵に仕込まれたスイッチを、強く踏み込んだ。
パツンッ! という小気味良い音と共に、ロキが仕立てた高級スーツの縫い目が弾け飛び、隠されていた極小スラスターワイヤーが K-Link の可動域を完全に解放する。
ウィィン……プシュゥゥゥッ!!
暗闇の中で、高圧の排気音が鳴る。
カイは、ギリアスから教わった「波のうねり」を足裏で感じ取っていた。船が波間で沈み込む一瞬の重力に、K-Link のバネを完全に同調させる。
爆発的な踏み込み。
カイの身体は、パニックに陥る人々の隙間を縫うように、コンテナの置かれたステージへと一直線にカッ飛んだ。
だが。
その「物理の最短距離」に、音もなく割り込んでくる影があった。
(……速い! なんだ、この空気抵抗を完全に無視した動きは……!)
カイの《神童の眼》が、暗闇の中で警鐘を鳴らす。
マナによる推進力ではない。圧倒的な身体能力だけで空間を滑るように移動する「無塵」の歩法。
白銀の英雄、ユーゴー・フォン・シュバルツだ。
彼は停電と同時に、この騒ぎが「紅の亡霊」による強奪であると直感し、誰よりも早くコンテナの護衛――いや、未知の強敵との「接敵」へと動いていたのだ。
「……泥棒にしては、随分と重い足音だな」
暗黒の中、ユーゴーの冷徹な声が響く。
ユーゴーは、軍礼装の腰に下げていた細身の儀礼剣を抜き放ち、闇夜を一閃した。
マナを極限まで肉体に留めた、純粋な身体強化による神速の斬撃。
「――っ!」
カイは反射的に、ロキが護身用としてスーツの裏に忍ばせていた古代合金の短剣を抜き、それを迎え撃った。
ガギィィィィィィンッ!!
剣と短剣が激突し、暗闇のステージに強烈な火花が散った。
その刹那の閃光が、互いの瞳をコンマ数秒だけ照らし出す。
(……この、異常な初速と鋭さ。まさか)
ユーゴーは、暗闇を切り裂く極限の「速さ」に戦慄した。
義足というハンデを負いながらも、一切の予備動作を省略し、最短距離で己の剣を弾き返した神速の反応。
……あの日、武道館の決勝戦で、自分を完全に置き去りにした「あの天才」の剣撃そのものだった。
(いや、あり得ない。あいつがこんな世界にいるはずがない。だが、この極限まで研ぎ澄まされた剣理は一体何者だ……!?)
(……この、岩山のような重圧と踏み込み。まさか)
カイもまた、息を呑んでいた。
相手の剣には魔法の小細工が一切ない。ただ純粋に「鍛え上げられた肉体」から放たれる、圧倒的な質量と重い一撃。
……あの日、自分の未熟な膝を粉砕するに至った、あの「親友」が放っていた絶対的な圧力。
(勇吾……? いや、そんな馬鹿な。相手は帝国のエリート騎士だぞ。ただの偶然だ。こんな異常な重さを持つ人間が、この世界にもう一人いるっていうのか……!)
交わるはずのない前世の記憶が、剣を通じてフラッシュバックする。
だが、互いの理性が「そんな奇跡があるはずがない」と、その直感を即座に否定した。
二人が激しい疑念と混乱の渦に突き落とされた、その時だった。
ズドォォォォォォン……ッ!!!
リヴァイアサン号の分厚い船殻が、くぐもった爆音と共に吹き飛んだ。
ロキが仕掛けた「静音指向性爆薬」だ。衝撃と音の大部分を海側へ逃がしつつ、ステージの真横の壁だけを綺麗にくり抜く変態的な職人技。
空いた大穴から、冷たい潮風と青白い月光、そして容赦ない海水が滝のように雪崩れ込んでくる。
「カイ!! ぼさっとすんな、積荷をフックに掛けろ!!」
穴の向こう、荒れ狂う波間に浮かぶガンドック号の甲板から、ロキがウインチのワイヤーを投げ込んできた。
「……っ、リト!」
『ええ、分かっているわ!』
カイは脳裏にこびりつく幻影を強引に振り払い、ワイヤーのフックを《深紅のコンテナ》のロックバーへと引っ掛けた。
「引き上げろ、ロキ!!」
「おうさ!!」
ガンドック号の強力なウインチが唸りを上げ、数トンはある巨大なコンテナが、船の壁をすり抜けて夜の海へと引きずり出されていく。
「逃がすか……!」
ユーゴーが再び踏み込もうとするが、流れ込んでくる海水と、傾き始めた船体の揺れが、彼の「無塵」の歩法をわずかに鈍らせた。
「……またな、白銀の騎士!」
カイはコンテナに飛び乗り、崩れゆく壁の穴から、月夜の海へと身を躍らせた。
純白のドレスを翻すリトが、彼に寄り添うようにして闇へと溶けていく。
海水がくるぶしまで浸水するステージの上。
ユーゴーは、手にした儀礼剣を下ろし、月明かりに照らされて遠ざかっていく「紅の亡霊」の母船――ガンドック号を静かに見つめていた。
「……ユーゴー様! ご無事ですか!」
遅れて駆けつけてきたウルリッヒが、海水を蹴立てて隣に立つ。
「……ああ。無傷だ」
ユーゴーは、自分の右手をじっと見つめた。
短剣と打ち合った時の、あのビリビリと痺れるような極限の剣理。
(あの剣の感触……ただの偶然か? それとも、俺の未練が見せた幻影か……)
ユーゴーは、握りしめた拳から血が滲むほど力を込めた。
(どちらにせよ、あの『紅の亡霊』の中身……絶対に俺の手で引きずり出して確かめてやる)
ユーゴーの薄紫の瞳に、かつてないほどの熱が、どす黒い執着の炎となって燃え上がった。
「ウル。白銀騎士団、全機発進させろ」
「はっ? しかし、相手は海へ……水上戦の準備が!」
「構わん。《シュネー・ヴァイス》を出せ。……海ごと、あの船を斬る」
あり得ない幻影への疑念を晴らすため、純粋な「闘争」の歓喜に震える白銀の英雄。
彼が本物の魔導鎧を駆り、理不尽なまでの物理法則を叩きつけてくるのは、もう秒読みだった。




