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第7章:深淵の残響(エコー)あるいは鉄の埋葬地

バベルに入港して数日。ガンドック号の整備デッキは、鉄を叩く音と、吐き出される蒸気の白濁に包まれていた。

 市場でゼノスを退けた武勇伝は、すでに船内の傭兵たちの間で格好の酒の肴になっていたが、当のカイは浮き足立つことなく、今日もテツカブラの脚部に潜り込んでいた。

「おいカイ、またそこかよ。バルガスの親父が『もう十分だ、これ以上やったら機体がくすぐったがる』って笑ってたぜ」

 ロキが、油まみれのウエスを肩にかけてやってくる。

「……でも、ロキ。ここ、まだ少しだけ『濁って』聞こえるんだ」

 カイはスパナを握ったまま、テツカブラの主脚のバイパス管に耳を当てる。

「濁る? ……お前のその耳、本当にな。俺には『絶好調』って音にしか聞こえねえよ」

 ロキは呆れたように笑いながらも、カイの隣に座り込み、自分のスパナを回し始めた。

 ガンドック号の日常。

 バルガスの豪快な怒鳴り声、シエラがタイプライターを叩く乾いた音、そして夜になると漂ってくる、安っぽいハーブと肉の煮込みの匂い。

 一条家での「死」を待つような静寂とは違う、泥臭くて騒がしい、けれど確かな「生」の音。カイはその居心地の良さに、心のどこかで救われていた。

 ――だが、その「音」は、ある夜、突然混じり込んできた。

 深夜。団員たちが寝静まり、移動要塞が眠りに落ちる刻。

 カイは、自分の右膝が、今までとは違う周期で脈動していることに気づいた。ドクン、ドクン、という心拍ではない。もっと深くて、重い。

 

 バベルの深層。ガンドック号のさらに下、幾千、幾万という鉄屑が積み重なる『鉄の胃袋』。

 その最深部から、それは響いてきた。

(……きて……)

 最初は、ただの風の鳴りかと思った。

 だが、その声はカイの「神童の眼」と「壊れた膝」を直接、細い針で突くように震わせた。

(……わたしの……あし……)

 それは言葉というより、電子のノイズに近い残響だった。

 カイはベッドから起き上がり、暗い格納庫へ出た。

 テツカブラも、練習用のラピッド・ラットも、静かに眠っている。どの機体も、魔力を持たないカイに語りかけてくることはない。

 けれど、足元から――。

 この移動要塞を支えるバベルの地底深くから、その「声」は絶え間なく、そして悲痛なほどにカイを求めていた。

「……何、なんだよ」

 カイは松葉杖を強く握りしめた。

 この場所には、魔力を持つ者なら数分で狂うほどの「魔力の吹き溜まり」がある。だから、誰も下層へは近づかない。

 けれど、カイにはわかる。

 自分を呼んでいるのは「魔力」ではない。

 自分と同じ、何かのきっかけで「折れて」しまい、それでもなお、再び立ち上がろうと足掻いている――『鉄の意思』だ。

 暗闇の中、カイは一人、ガンドック号のハッチを開け、外の冷たい空気の中に足を踏み出した。

 

 見下ろす先は、巨大な穴。

 鉄が鉄を食い、錆びた歯車が星のように散らばる『鉄の胃袋』の深淵。

 

「……君なのか。僕を呼んでいるのは」

 その夜、バベルの風は吹いていなかった。

 ただ、暗闇の底で、一つの赤い光が、カイの心拍に合わせるように、かすかに、けれど力強く明滅していた。


深夜。ガンドック号のハッチを抜けたカイを待っていたのは、肺を刺すような冷気と、よどんだ魔力マナの悪臭だった。

 バベルの最下層へ続く縦穴は、かつて巨大なエレベーターシャフトだった場所だ。今はその機能も失われ、積み重なった機体の残骸が、いびつな螺旋階段のように闇の奥へと続いている。

「……はぁ、はぁ……」

 松葉杖を突く手が、冷えた鉄の感触に痺れる。

 右膝がうずく。この一週間、整備の修行で培った「金属の悲鳴を聴く耳」が、周囲の残骸から発せられる微かな音を拾ってしまう。数十年、あるいは数百年前の機体が、自重でゆっくりと潰れていく断末魔。

 ここは、魔力の吹き溜まり。

 本来、魔力を持たない人間には無害なはずだが、あまりに濃密な「残留思念マナ・ゴースト」が、カイの脳幹を直接揺さぶる。

 視界の端に、かつての決勝戦で自分を見下ろしていた姉・ミオの冷たい微笑がよぎる。

(……幻覚だ。惑わされるな)

 その時、頭上の鉄骨が不自然にきしんだ。

 カイは反射的に、ロキから預かっていた大型のスパナを懐から抜き出す。

 暗闇の中から現れたのは、犬とも蜘蛛ともつかない、いびつなシルエット。『錆喰らい《スクラップ・イーーター》』。廃棄された機体の魔導回路スロットを食い荒らし、その残留マナで動く、この深淵の掃除屋だ。

 キチキチ、と不快な駆動音を立てて、クリーチャーが跳ねる。

 足の不自由なカイに、逃げ場はない。

「……来るか」

 カイは呼吸を整える。魔力による身体強化はできない。

 だが、バベルの市場でゼノスを退けたあの時と同じ、澄み渡るような「眼」が、暗闇の中で怪物クリーチャーの重心移動を捉えた。

 怪物が飛びかかってくる。その『起こり』。

 ――今だ。

 カイは松葉杖を軸に、身体を最小限にひねる。

 空振りし、体勢を崩した怪物の喉元――剥き出しになった古い動力チューブへ、スパナの柄を叩き込んだ。

 物理的な衝撃。

 怪物は不快な放電を撒き散らしながら、奈落の底へと転落していった。

「……っ……」

 激しい動悸。けれど、カイの心は冷めていた。

 怪物が落ちていった暗闇のさらに先。そこから、あの声がより鮮明に響いてきたからだ。

(……見つけて……。……わたしの……折れた、刃を……)

 辿り着いた最底。そこは、堆積した鉄屑が自らの熱で発光する、奇妙な薄明かりに満ちていた。

 中心部には、周囲の残骸を磁場のように退けた、不自然な「空白」がある。

 そこに、それはいた。

 赤い、すすけた装甲。

 右腕は付け根から失われ、脚部は地面に半ば埋没している。

 頭部のセンサーは割れ、まるで泣いているかのように、オイルの染みがバイザーを伝っていた。

 そこにあったのは、ただの、あまりにも孤独な「ガラクタ」だった。

「……やっと、会えたね」

 カイは松葉杖を捨て、這いずるようにしてその機体へと歩み寄った。

 自分の折れた膝と、この機体の失われた四肢。

 共鳴する痛み。

 カイが震える手でその赤い胸部装甲に触れた瞬間――。

 

 死んでいたはずの機体の奥底で、一つの真空管が、弱々しく、けれど何よりも暖かな橙色の光を灯した。

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