第41章:海神の腹の中、あるいは白銀との交錯
自由貿易海洋都市の沖合三マイル。
波一つない穏やかな夜の海に、巨大な不夜城が浮かんでいた。超豪華カジノ船『リヴァイアサン号』。
七国の法が及ばない公海上で開かれるこの船の宴は、表向きは富豪たちの社交場だが、その最下層では、金貨と欲望だけがすべてを決めるVIP限定の《闇オークション》が開催されている。
「……すごい人だね。息が詰まりそうだよ」
分厚い深紅の絨毯が敷かれた最下層のエントランス。
カイは、首元のネクタイをわずかに緩めながら周囲を警戒した。
会場には、高価な魔導装飾をジャラジャラとぶら下げた貴族や、顔の半分を義体に置き換えた裏社会の顔役たちが、グラスを片手に品定めの視線を交わしている。
『背筋を伸ばしなさい、カイ。私たちは遠方の小国からお忍びでやってきた若き貴族……堂々としていれば、誰も疑わないわ』
カイの腕に優雅に手を添えているリトは、周囲の誰よりもこの場に溶け込んでいた。
シエラの手によって豪奢なドレスへとアレンジされた「純白のケープコート」は、彼女の透き通るような銀髪と見事に調和している。胸元で揺れる真紅のリボンが、高貴な血筋を思わせる気品を放ち、すれ違う多くの者たちが、欲望の混じった視線を彼女へ向けていた。
「……リト、みんな君を見てるよ」
『見させておけばいいわ。私の計算した「完璧な淑女」の振る舞いに、彼らの視線が吸い寄せられるのは物理的に当然の帰結よ。……それよりカイ、歩幅。右脚の K-Link の排気音を、会場のBGMのテンポに同調させなさい。ノイズは命取りよ』
「うん、分かってる」
カイは、右脚の義足が発する微かな駆動音を、オーケストラが奏でる優雅なワルツの低音部に溶け込ませるようにして歩く。
シエラが書き換えた偽造招待状のセキュリティ・コードは完璧に機能し、彼らは何一つ疑われることなく、最深部の競売フロアへと足を踏み入れていた。
その時。
会場の入り口付近の空気が、まるで急激に冷却されたかのように「凍る」感覚が走った。
カイは反射的に足を止めた。
「……リト」
『……ええ。分かっているわ』
リトの実体化を維持しているエネルギーが、微かに波打つ。
会場の喧騒が、モーセの海のように自然と割れていくのが見えた。
人混みの向こうから現れたのは、この薄暗い欲望の坩堝にはあまりにも不釣り合いな、純白の軍礼装に身を包んだ白銀の髪の少年だった。
背後には、漆黒の軍服を着た長身の副官を従えている。
神聖アルカディア帝国、特務騎士ユーゴー・フォン・シュバルツ。
彼はこの闇オークションに「紅の亡霊」が現れる、あるいはそのパーツが取引されるという予測を立て、自らこの堕落した船へと足を踏み入れたのだ。
(……なんだ、あの重圧は)
カイの右脚の K-Link が、危険を知らせるように微かに軋む。
距離にして十メートル。人々の肩越しに垣間見えるその姿。
カイの「神童の眼」は、すれ違う人々の隙間から、その少年の異常性をはっきりと捉えていた。
歩法に、一切の無駄がない。
莫大なマナを内包しているはずなのに、それが外に一滴も漏れず、すべて肉体の内側に「重さ」として極限圧縮されている。魔法の産物ではなく、血を吐くような研鑽の果てに辿り着いた、極限の「物理」の体現者。
一方のユーゴーもまた、ピタリと足を止めていた。
(……この空気の揺らぎ。魔力の残滓が一切ない、空間の空白……。いや、それ以上に、この「奇妙な重心」はなんだ)
ユーゴーの薄紫の瞳が、人混みの中を鋭く探る。
そこには、マナを全く持たないがゆえに、世界と強烈な「物理的摩擦」を起こして立つ、一人の黒スーツの少年がいた。
上品な装いにも関わらず、その後ろ姿は、帝国のどんな高位騎士よりも深く、確かに「大地を掴んで」いる。
ドクン、と。
二人の心臓が、見えない糸に引かれたように、同時に大きく脈打った。
かつて同じ世界で汗を流し、互いを高め合い、そして引き裂かれた二つの魂。
一人は世界の理を透かす「無塵」へと至り、一人は世界の理を破壊する「極限物理」へと至った。
まったく正反対の道を歩みながら、同じ「最強」という頂を目指す二つの引力が、この豪華客船の底で激しく共鳴する。
二人の視線が、喧騒の中で交差しそうになる――その刹那。
「……ユーゴー様。間もなく競売が始まります。ご指定のボックス席へ」
ウルリッヒの低く静かな声が、ユーゴーの意識を現実へと引き戻した。
「……ああ、分かっている」
ユーゴーはもう一度だけカイのいた方角を見たが、すでにその黒いスーツの影と純白のドレスの少女は、貴族たちの波に呑まれて消えていた。
(気のせいか。……いや、間違いなく『本物』がこの船に乗っている。俺の探している、泥臭い正解が)
ユーゴーは口角を微かに上げ、冷徹な足取りでVIP席へと歩を進める。
一方、太い大理石の柱の陰に身を隠したカイは、荒くなる呼吸を必死に抑え込んでいた。
背中には、冷たい汗が伝っている。
「……カイ、大丈夫? 心拍数が異常よ。エラーを吐きそう」
「……うん。大丈夫だ。……でも、あの白銀の髪の騎士。あいつとは、絶対に剣を交えることになる。そんな気がするんだ」
カイの言葉に、リトは無言で彼の腕を強く握りしめた。
彼女の中の兵器としての本能が、あの白銀の少年を「最大の障壁」として警告音を鳴らし続けていた。
やがて。
会場の照明が一段と落とされ、ステージの中央に重々しいスポットライトが当てられる。
タキシードを着た司会者の、仰々しい声が響き渡った。
『――さあ皆様、大変長らくお待たせいたしました! 今宵の目玉、深海より引き揚げられし神話の遺物! いかなる魔導カッターでも傷一つ付かない、《深紅のコンテナ》の登場です!!』
分厚い黒布が取り払われる。
そこには、大人が十人は入れるほどの巨大な、真っ赤な金属の箱が鎮座していた。
それを見た瞬間、リトの右肩が激しく熱を持ち、カイの脳内に『私を取り戻して』という強烈な思念が叩き込まれた。
「……シエラさん。こっちは配置についた。準備はいい?」
カイは襟元に仕込んだ極小の通信機に囁く。
『ええ。ハッキング完了。……カウントダウン開始。3、2、1……』
シエラの冷徹な声と共に、リヴァイアサン号の全魔導灯が、一斉にその光を失った。
完全なる暗闇。
そして、マナの供給を絶たれたことによる、防犯障壁の強制シャットダウン。
『な、何だ!? 停電か!?』
『警備兵! 魔導灯の予備回路を起動しろ!』
阿鼻叫喚のパニックが巻き起こるオークション会場。
だが、その完全な暗闇の中で、二人の少年だけが「物理の眼」を研ぎ澄ませていた。
「行くよ、リト!」
『ええ、カイ! わたしの身体まで、直線距離三十メートル!』
右脚の K-Link が、暗闇のステージへ向けて爆発的な踏み込みを開始する。
闇と物理の強奪劇が、今まさに火蓋を切った。




