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第39章:潮騒の迷宮、あるいは純白のケープコート

自由貿易海洋都市フリーポート

 七国のどの領土にも属さず、金貨と情報だけが絶対の価値を持つこの街は、むせ返るような潮の匂いと、多種多様な人種、そして蒸気とマナが入り混じる独特の喧騒に包まれていた。

 巨大な港には、帝国の鋼鉄艦や教国の白亜の帆船、果ては海賊上がりの武装船までが所狭しと停泊し、荷揚げのクレーンが一日中稼働している。

「……すげえ。バベルの市場より何倍もデカいぞ!」

 石畳のメインストリートを歩きながら、ロキが目を輝かせて叫んだ。

 道の両側には、海の魔物から剥ぎ取った巨大な骨や、深海から引き揚げられた未知の魔導パーツを並べる露店がズラリと続いている。ロキはすでにゴーグルを額に上げ、両手いっぱいに正体不明のシリンダーや配線を抱え込んでいた。

「ロキ、あんまり重いもの買い込まないでよ。僕たち、情報収集に来たんだから」

 カイが苦笑いしながら窘める。

 彼の右脚に装着された『K-Link』が、石畳を踏むたびにウィィン、プシュッという規則的な排気音を鳴らしている。松葉杖を使わず、自分の両足でこの活気に満ちた街を歩けることが、カイにとっては新鮮な喜びだった。

 そして、そのカイの腕にギュッと抱きつくようにして歩いているのが、実体化したリトだ。

『……人が多いわね。みんな、バラバラの方向に歩いてる。帝都の映像データで見たような規則性が欠片もないわ』

 リトは少しだけ不安そうに周囲を見回しながらも、その足取りはどこか弾んでいた。

 彼女が身に纏っているのは、カグツチの演算によるホログラムの服ではない。以前、雪の街でカイが選んで買った、物理的な「純白のケープコート」だ。首元には、彼女の瞳と同じ真紅のリボンが揺れている。

「歩きにくくないか、リト。そのコート、少し重いだろ?」

『平気よ。……風が吹くと布が擦れるし、歩くたびに裾が揺れるけど……これが「着ている」ってことなのね。悪くないわ』

 リトはコートの袖口を愛おしそうに撫で、カイの腕をさらに強く引き寄せた。

 街ゆく人々は、誰も彼女が古代遺物レガリアの演算人格だとは気づかない。ただの「見目麗しい銀髪の少女」として、多くの視線が彼女の純白のコート姿に注がれていた。

「へっ、お熱いことで。俺はこっちの『機械の恋人』を探すのに忙しいんでな!」

 ロキが呆れたように笑い、怪しげなジャンク屋のテントへと潜り込んでいく。カイとリトも、その後を追った。

 テントの中は、外の太陽光が遮られ、魔導灯の青白い光が幾重にも積み上げられた鉄の山を照らしていた。

「……いらっしゃい。見ない顔だね。ガラクタ漁りか、それとも『底』の匂いがするお宝を探しに来たのかい?」

 奥から現れたのは、右目に分厚い拡大レンズをはめ込んだ、老婆のような店主だった。彼女の店は、表向きはただのジャンク屋だが、裏では海洋都市の海兵やサルベージ屋から流れてくる「訳あり」の品を扱う情報屋でもある。

「ああ、底の匂いがする方だ」

 ロキがカウンターに銀貨を数枚滑らせる。

「古代の駆動系パーツを探してる。マナを使わねえ、純粋な物理だけで動く『中枢ユニットの殻』だ。……心当たりはねえか?」

 店主は銀貨を素早く回収すると、拡大レンズ越しにロキを、そして背後にいるカイとリトをねっとりと見つめた。

「……マナを使わない古代の殻、ねえ。あんたたち、ただの傭兵じゃないね。……そんな危ねえ代物、普通は使い道がない」

「あるかないか、それだけ答えてくれりゃいいんだよ」

 ロキが凄むと、店主はカカカと笑い、声を潜めた。

「……あるにはあるさ。つい三日前、この海域にある『沈んだ都市』から、海賊上がりのサルベージ船がとんでもない箱を引き揚げたって噂だ」

「箱?」

「ああ。どんな魔導カッターでも傷一つ付かない、真っ赤な金属でできた巨大なコンテナさ。……中身は分からねえが、あれは間違いなく『神話の時代』の代物だ。今夜、西区の地下で開催される《闇オークション》に目玉商品として出品されるらしいよ」

 真っ赤な金属。

 その言葉を聞いた瞬間、カイとリトの間に、電撃のような共鳴が走った。

『……間違いないわ、カイ。私の「殻」よ。……あの中にある』

 リトの瞳が、切実な色を帯びてカイを見上げる。

「今夜の闇オークションか……。分かった、情報代だ」

 カイはロキの肩を叩き、追加の銀貨をカウンターに置いて店を出た。

「カイ、どうする? 闇オークションなんて、招待状がなけりゃ入れねえし、落札するにしても金貨が山ほど必要だぞ。俺たちの懐事情じゃ……」

「シエラさんとバルガスさんに相談しよう。……でも、絶対に手に入れる。あれは、リトの身体だ」

 カイの迷いのない声に、リトは純白のコートの胸元をギュッと握りしめた。

 彼女の右肩――不格好に繋がれた重すぎる《深紅の右腕》が、本体の接近を感知したのか、微かに、けれど激しく脈動しているのを感じた。

 ◇

 ガンドック号へ戻る道すがら、カイはふと、海の方角を見やった。

 潮風が一段と強く吹き抜け、カモメたちが騒がしく空を舞っている。

 その視線の先。巨大な港の入り口を割り入るようにして、一際異彩を放つ船団がゆっくりと入港してくるのが見えた。

 無骨な海賊船や商船とは違う、洗練された流線型の船体。

 そして、舳先に掲げられた、神聖アルカディア帝国の『双頭の鷲』の紋章。

「……帝国軍?」

 カイが足を止める。

 船団の甲板には、純白の装甲に身を包んだ最新鋭の魔導鎧が整然と並び、その中央には、一際巨大で、氷のように冷たい威圧感を放つ白銀の機体――《シュネー・ヴァイス》が鎮座していた。

「おいおい、冗談だろ……。なんで帝国の正規軍が、こんな中立都市に堂々と入ってきやがるんだ?」

 ロキが顔を引き攣らせる。

 帝国の船団が港に接岸する。

 タラップが下ろされ、そこから降りてきたのは、純白の軍礼装を纏った白銀の髪の少年だった。

 彼の周囲には、目に見えないほどの高密度なマナが纏わりつき、歩くたびに周囲の空気が物理的に歪んで見えるほどの「重さ」を放っている。

 距離にして数百メートル。

 人混みと潮騒に阻まれ、互いの顔など認識できるはずもない距離。

 だが。

 カイの右脚の義足が、不意にチリッと熱を持った。

 同時に、港に降り立ったユーゴー・フォン・シュバルツが、ピタリと足を止め、群衆の彼方――カイたちがいる方角へと、薄紫の瞳を鋭く向けた。

(……なんだ、今の感覚は)

 カイは胸の奥がざわめくのを感じた。

 殺気ではない。もっと根源的な、かつてどこかで知っていたような、魂を直接揺さぶられるような「重圧」。

「……カイ? どうしたの?」

 リトが心配そうにカイの顔を覗き込む。

「いや……なんでもない。急ごう、シエラさんたちが待ってる」

 カイは無理に微笑み、リトの手を引いて歩き出した。

 背後で、帝国の軍靴の音が、フリーポートの石畳を重々しく叩き始めている。

 純白のコートを着た妖精と、鉄の義足の少年。

 そして、白銀の英雄。

 自由の海で、交わるはずのなかった二つの「物理」の極北が、同じ空気、同じ重力を共有し始めていた。

 今夜の《闇オークション》が、世界を揺るがす激突の舞台になることを、彼らはまだ知らない。

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