第38章:境界の砂塵、あるいは重すぎる右腕
神聖アルカディア帝国と、聖エリュシオン教国。
大陸を二分する巨大国家の国境線の間には、どちらの領土でもない、法も秩序も届かない荒野が広がっている。
数百年にも及ぶ小競り合いの末に焦土と化したその地は、棄てられた魔導兵器の残骸と、行き場を失った野盗たちが蠢く『緩衝地帯』と呼ばれていた。
その赤茶けた砂塵を巻き上げながら、巨大な無限軌道で荒野を削り取って進む鉄の城――移動要塞ガンドック号。
「……右舷、帝国の無人哨戒機の残骸を通過。左舷の遠方には、教国の結界塔の光が見えるわ。……ここから先は、くしゃみ一つしただけで両国から魔導弾が飛んでくる地帯よ。バルガス、慎重に舵を切って」
ブリッジで、シエラが円形レーダーを睨みながら冷徹な声を飛ばす。
彼女の膝の上では、かつて教国の呪いを放っていた『石版』が、今は完全にシエラのハッキング下に置かれ、逆に周囲の魔導探知を妨害するジャミング装置として機能していた。
「カカッ! 任せとけ副長! この巨体を隠して歩くなんて、針の穴に象を通すようなもんだがな!」
バルガスが豪快に笑いながら、重い操舵輪を回す。
北嶺の雪とシルヴァン樹海の泥を越えてきたガンドック号の装甲は、傷と補修の痕でボロボロだったが、その駆動音はかつてないほど力強く、そして「生き急ぐ」ように響いていた。
一方、船の最下層にある演習用デッキでは、むせ返るような汗と鉄の匂いが充満していた。
「――違う。右半身の重さに『逆らう』な。重力に喧嘩を売って勝てる人間はいねえ。この間は出来てたぞ。」
壁際でパイプ椅子に深々と腰掛け、紫煙を吐き出しながら指摘するのは、死神ギリアスだ。
彼の視線の先では、上半身裸のカイが、右腕から右肩にかけて数十キロの重金属ウエイトを巻き付けられ、荒い息を吐きながら木剣を振るっていた。
シルヴァン樹海で回収したカグツチの《深紅の右腕》。
物理的な接合は果たしたものの、心臓コアとの出力が合わず、現在のそれは「数トンの動かない鉄塊」としてカグツチの右肩にぶら下がっているだけだ。
ギリアスは、その「異常な重心の偏り」をカイの生身に叩き込むため、この理不尽な特訓を強いていた。
「はぁっ、はぁっ……! でも、逆らわないと……右に引っ張られて、倒れちゃいます……!」
カイの右脚――K-Link を仕込んだ義足が、不均等な重量を支えきれずに床を擦り、不快な摩擦音を立てる。
「だから倒れろと言ってるんだ。……倒れるそのエネルギーを、前への『踏み込み』に変換しろ」
ギリアスが面倒くさそうに立ち上がり、カイの前に歩み寄った。
「いいか、坊主。お前は今まで、自分の『軽さ』を武器にしてきた。だが、今のカグツチは右半分が死ぬほど重い。それを『邪魔な重り』と思うから振り回される。……なら、最初からその重りを『落下』させろ」
ギリアスはカイの右肩に手を置き、ふっと力を抜いた。
カイの身体が、ウエイトの重さに引かれて右斜め前へと崩れ落ちそうになる。
「――今だ、左脚を軸に身体を捻れ! 落ちる重さを遠心力に変えろ!」
カイは反射的にギリアスの声に従った。
倒れ込む勢いを殺さず、右脚の K-Link のバネで地面を弾き、そのまま身体を独楽のように左回転させる。右肩の重りが凄まじい遠心力を生み、カイの手にある木剣が、空気を裂いて唸りを上げた。
ブンッ!!
木剣は、ギリアスの鼻先数ミリを掠めてピタリと止まる。
「……っ」
カイは目を見開いた。
今まで「枷」だと思っていた重さが、一瞬にして爆発的な加速の源に変わったのだ。
「……ふん。……あー、飲み込みだけは早えな。今の感覚だ」
ギリアスは木剣を指先で弾き返し、再びパイプ椅子へと戻っていく。
「重力と遠心力。この二つはお前の裏切らない味方だ。魔力なんぞより、よっぽど素直で確実な『理』だぜ」
「……ギリアスさん。ありがとうございます」
カイが汗を拭いながら深く頭を下げると、空間のノイズが微かに揺れ、実体化したリトが現れた。
彼女の銀髪は少し乱れ、いつもより輪郭がぼやけている。カグツチの右腕から逆流する負荷を、彼女の演算人格が必死に抑え込んでいる証拠だった。
『……カイ、お疲れ様。……今の遠心力のデータ、私の姿勢制御のロジックに組み込んでおくわ』
「リト、無理してないか? 休んでていいのに」
『平気よ。……あの右腕が、私に早く本当の姿を思い出せって、うるさくノックしてくるの。……でも、カイがこうして「重さ」を受け入れてくれるなら、私も負けていられないわ』
リトは強がって微笑み、カイの右脚の K-Link にそっと触れた。
カイの不自由な右脚と、リトの動かない右腕。
欠損を抱えた二人が、ギリアスという死神の教えを受け、不格好なまま「最強」へと歩みを進めようとしていた。
その時、船内放送のスピーカーが甲高く鳴った。
『――全員、甲板へ出なさい。……嫌な砂埃はここまでよ』
シエラの声に、カイとギリアスは顔を見合わせた。
急いでタラップを駆け上がり、重いハッチを押し開ける。
ドワッ、と吹き込んできたのは、赤茶けた砂塵ではなく。
鼻を突くような、強く、そして爽やかな「潮」の匂いだった。
「……うわぁ……!」
甲板に出たカイは、目の前に広がる光景に息を呑んだ。
帝国と教国の息が詰まるような大地を抜けた先。地平線の向こうまで広がる、深い蒼色。
広大な海だ。
そして、その海岸線にへばりつくようにして、無数の船と雑多な建物がひしめき合う、巨大な港町が広がっている。
教国の白亜でもなく、帝国の鋼鉄でもない。様々な色の帆船と、蒸気機関の煙、そしてマナの光がモザイク画のように入り混じる、混沌と自由の坩堝。
「ここが……」
「ああ」
いつの間にか隣に立っていたバルガスが、潮風に目を細めて笑った。
「七国のどこにも属さねえ、金と欲望と情報が一番集まる場所。……自由貿易海洋都市だ。お前さんのカグツチの『第二の殻』が眠っているとされる、海の迷宮さ」
ガンドック号が、重い警笛を鳴らして都市へと接近していく。
海鳥の鳴き声と、港の喧騒が、少しずつ彼らを迎え入れるように近づいてくる。
だが、彼らはまだ知らない。
この潮風の吹く街へ、北の果てから「白銀の英雄」が、帝国の絶対的な正義を背負って猛スピードで迫っていることを。
交わる運命の海へ。
戦端は、潮騒と共に静かに開かれようとしていた。




