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幕間:白亜に巣食う蜘蛛、あるいは狂気の檻

聖エリュシオン教国、聖都。

 天を衝く白亜の巨塔『天階閣テンカイカク』の最上層は、下界の吹雪が嘘のように静まり返っていた。

 聖騎士団長ウラジミールは、音もなく大理石の回廊を歩んでいた。

 北嶺での敗北から数ヶ月。彼は「無知で清廉な騎士」という仮面を被り直し、教国の中枢に蔓延る腐敗を静かに、しかし確実に調査し続けてきた。

 ヴァレリウスの死は、教団内に大きな権力の空白を生んだ。

 ウラジミールはその隙を突き、孤児院を食い物にしていた下位の司祭たちを密かに断罪し、裏帳簿の証拠を集めた。そして今夜、諸悪の根源である大枢機卿を直接捕縛し、この白亜の塔を真に浄化するための刃を抜いたのだ。

(……これで、ようやく第一歩だ。あの少年たちに恥じぬ、泥を洗うための戦いが始まる)

 ウラジミールは静かに呼吸を整え、最高意思決定機関である「円卓の間」の重厚な扉を開け放った。

「――そこまでだ、枢機卿閣下。貴殿らの罪は、すべて我が剣の元に……」

 だが、ウラジミールの声は、部屋の異様な光景の前に中途半端に途切れた。

 円卓の間に、護衛の姿はない。

 教国の頂点に君臨するはずの十二人の枢機卿たちは、まるで魂を抜かれた抜け殻のように、自らの席で虚ろな目をして虚空を見つめ、微かに涎を垂らしていた。

 彼らの首筋には、極細のマナの糸が、操り人形の糸のように絡みついている。

「……何事だ、これは。誰がいる!」

 ウラジミールが聖剣を抜き放ち、部屋の奥――大枢機卿が座るはずの、一段高い玉座へと視線を向けた。

 そこに、男の姿はなかった。

 代わりに、不釣り合いなほどに甘い花の香りが、香炉の煙を押し退けて鼻腔をくすぐる。

「……踏み込みの際、右足の着地が0.05秒遅いわね。北嶺で負った脇腹の傷を無意識に庇っている。……それに、剣の重心。マナの巡りが剣先に寄りすぎていて、初撃の後の隙が大きすぎるわ」

 静謐な空間に響いたのは、鈴を転がすような、酷く透き通った少女の声だった。

 玉座の背もたれに気怠げに寄りかかり、長い黒髪を弄っていた影が、ゆっくりと月明かりの中へ歩み出てくる。

 それは、教国の装束を独自の解釈で着崩した、恐ろしいまでに美しい異国の少女だった。

 彼女の指先には、枢機卿たちを縛るマナの糸が絡まり、まるで極上の絹糸を紡ぐように弄ばれている。

「な……貴様、何者だ! なぜ枢機卿たちがこんな……」

「静かにして。計算の邪魔よ」

 少女――一条 澪ミオは、ウラジミールを一瞥すらしない。

 彼女は空中に展開された、教国の最高機密である「超高度魔導術式」の幾何学模様を、欠伸をしながら指先一つで書き換えていた。

「この世界の『マナ』というシステム。最初は面白いと思ったけれど、構造が単純すぎて三日で飽きたわ。……こんなお粗末な数字の羅列を『神の奇跡』だなんて呼んで、何千年も停滞していたの? 馬鹿みたい」

 澪が指を弾くと、彼女の背後に展開された術式が、教国の高位魔導師が一生をかけても到達できないほどの恐ろしい密度で再構築され、輝きを放った。

 ウラジミールは戦慄した。

 彼女が放つマナの総量は、決して多くない。だが、その「操作精度」が常軌を逸しているのだ。マナの粒子一つ一つをミリ単位で支配し、効率を極限まで高めたその術式は、もはや魔法ではなく「完璧な暴力」だった。

「貴様……まさか、教国を裏から操っているのか……!」

「操る? 人聞きの悪いことを言わないで。私はただ、彼らの非効率な脳みそを、私の計算リソースとして『間借り』しているだけよ。……この国は物資もマナも豊富だから、あの子の『おもちゃ箱』を作るにはちょうどいいの」

 澪がようやく、漆黒の瞳をウラジミールへと向けた。

 その瞳の奥に宿る、底知れぬ狂気と執着に、百戦錬磨の聖騎士であるウラジミールの背筋が凍りつく。

「あの子……?」

「ええ。私の、可愛くて、可哀想で、どうしようもない欠陥品」

 澪は、懐から「折れた竹刀の破片」を取り出し、白磁のように滑らかな頬にすり寄せながら、恍惚と微笑んだ。

「北嶺の報告データ、見たわよ。ウラジミール団長。……あなたが、私のカイをいじめたのね?」

 その名前が出た瞬間、ウラジミールの心臓が大きく跳ねた。

 あの、泥臭くも生きることに執着していた隻脚の少年。彼を「欠陥品」と呼ぶこの怪物は、間違いなく少年の過去に巣食う闇そのものだ。

「……カイの事か?貴様が、彼に……!」

「ふふ、彼、少しは面白くなったみたいね。あの忌々しい赤いガラクタなんて拾っちゃって。……でも、ダメなのよ。カイは、私の計算シナリオの中だけで息をしていればいいの。あの折れた足で、私以外の世界を歩くなんて、許さない」

 ウラジミールは、憤怒と共に床を蹴った。

 教国の腐敗など、もはやどうでもよかった。この目の前にいる「極彩色の毒」をここで断たなければ、あの少年が、そして世界が、この女の狂気という名の檻に閉じ込められる。

「消えろ、妖魔ァッ!!」

 神速の踏み込み。全マナを乗せた必殺の聖剣が、澪の細い首筋を捉える――はずだった。

「だから、遅いって言ってるでしょ」

 キィィィン――ッ。

 ウラジミールの全力の一撃は、澪が指先一本で空中に展開した「極小の物理障壁」によって、いとも容易く、そして完璧に弾き返された。

「なっ……!?」

「あなたの剣技、0.2秒で解析できたわ。綺麗なだけで、重さがない」

 澪は微笑んだまま、ウラジミールの胸元へ、彼の剣技と全く同じ軌道で、手刀を突き出した。

 それは、教国の聖騎士が数十年かけて研鑽した秘伝の技を、たった一瞥でトレースし、さらに無駄を省いて「完璧な形」へと昇華させた一撃。

 ゴフッ……!

 鎧越しに叩き込まれた物理的な衝撃に、ウラジミールの巨体が吹き飛び、床を転がった。

「が、はっ……あ……」

 血を吐きながら立ち上がろうとするウラジミールの前で、澪は退屈そうに窓の外――はるか東の空を見つめた。

 彼女の視線は、空間を越え、ガンドック号の片隅で眠る少年の寝顔を撫でているかのようだった。

「待っててね、カイ。もうすぐ、この国をまるごと使って、あなたのためだけの、絶対に逃げられない『完璧な家』を造ってあげるから」

 その言葉を聞いた瞬間、ウラジミールの中で冷たい警鐘が鳴り響いた。

(……勝てない)

 騎士としての本能が、絶対的な格差を告げている。ここで刺し違えようと足掻くのは、騎士の誉れかもしれない。

 だが、自分がここで死ねば、誰があの少年に「この怪物の存在」を伝えるのだ?

 ――『あんたの正義が泥を被ったっていうなら、これからはその泥を洗うために生きてみろよ。……死んで逃げるのは、ガンドックの流儀じゃない』

 雪原で、少年がかけてくれた不器用な言葉が脳裏を過る。

「……ぐ、ぅぅおおおおッ!!」

 ウラジミールは、残存するすべてのマナを剣ではなく「足元の床」へと叩きつけた。

 教国の誇る大理石の床が、爆発音と共に円形に崩落する。

「あら?」

 澪がわずかに目を丸くする中、ウラジミールは崩れ落ちる瓦礫と共に、塔の最上層から下界へと身を躍らせた。

 無様で、惨めで、騎士の誇りなど欠片もない「逃亡」。

 だが、彼は空中で姿勢を制御し、雪の積もる教国の屋根へ血まみれになりながら転がり落ちた。

 澪は、ポッカリと開いた床の穴を見下ろし、小さく笑った。

「……ふふっ。逃げちゃった。まあいいわ、彼はカイに新しい『味』を教えてくれたみたいだから」

 彼女は再び玉座に戻り、狂気の術式を編み続ける。

 白亜の塔は、すでに魔窟へと堕ちていた。神の奇跡を謳う聖エリュシオン教国は、一人の狂える天才少女の、巨大な「おもちゃ工場」へと成り果てていたのだ。

 一方。

 極寒の雪原を、重傷を負いながら這い進むウラジミールは、血に染まった手を強く握りしめていた。

(……カイ。……逃げろ。お前の後ろには……とてつもない闇が、迫っているぞ……!)

 泥臭く、無様に。

 だが、真の意味で「生きる」ことを選んだ白亜の騎士は、少年へこの危機を伝えるためだけに、雪と闇の中へと姿を消した。

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