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第九章:鋼獣

シュバルツ領の春は、泥濘でいねいと沈黙から始まる。

 雪解けの季節、本来ならば土の匂いや芽吹く命の躍動があるはずのその地は、今年、異様な金属臭に包まれていた。

 領地の北端にそびえる「鉄の門」を見下ろす物見櫓。十六歳になったユーゴー・フォン・シュバルツは、冷たい風に白銀の髪をなびかせながら、北の地平線を見つめていた。

 そこには、バベルの裾野から広がる広大な緩衝地帯がある。人類の住域と、古代の残滓が蠢く魔域を分かつ、生と死の境界線だ。

「……音が、消えたな」

 ユーゴーが低く呟いた。

 隣に立つ副官、ウルリッヒ・チャンドラーが深く頷く。二十一歳になった彼は、その鋭い眼光を一度も地平線から逸らさない。

「ええ。鳥も、獣も、この数日間一匹として姿を見せていません。聞こえるのは、風が岩を削る音と……あの忌々しい『ノイズ』だけです」

 空を見上げれば、そこには不気味なオーロラのような光が揺らめいている。それは超古代の警備兵器――スカベンジャー・レイスたちが発する、固有の魔導波だ。

 通常、それらは個体ごとに独立し、目の前のマナを食らうだけの「狂った獣」に過ぎない。だが、今、空に描かれている紋様は、明らかに一つの巨大な「指向性」を持っていた。

「個ではなく、群れとして同期している……。帝都の演算機なら『通信エラー』と片付ける事象ですが、現場の肌感覚はもっと最悪な答えを出していますよ、若」

 ウルリッヒが差し出した観測用モニターには、緩衝地帯の砂塵の中に蠢く、無数の影が映し出されていた。

 多脚型、翼竜型、そして人間に似た異形の二足歩行型。それらが、互いに争うこともなく、まるで軍隊のように整然と隊列を組み、こちらを――シュバルツ領を、じっと「観察」している。

 スカベンジャー・レイスは自己増殖する。

 鉄を食らい、マナを吸い、自らの形態を最適化し続ける。

 その「進化」のベクトルが、もしも「人類の駆逐」という一点に収束し始めたとしたら――。

「……これは、大反乱オーバーランの予兆だ」

 背後から響いたのは、重厚で威厳に満ちた声だった。

 シュバルツ辺境伯。

 現帝国最強の盾と呼ばれるその男は、軍服の外套を翻し、息子たちの元へ歩み寄った。その眉間には、かつてないほど深い皺が刻まれている。

「父上。……やはり、そう見ますか」

「ああ。バベルの深部で何かが目覚めたか、あるいは『女王クイーン』に相当する個体が生まれたか。……奴らは今、我々の防衛網の『隙』を測っている。戦士としての直感が、耳元で警鐘を鳴らし続けて止まんのだ」

 辺境伯の手は、腰に差した大剣の柄を強く握りしめていた。

 彼は知っている。シュバルツ領が突破されれば、その先にある帝国の豊かな平原は、文字通り「鋼の津波」に飲み込まれ、一夜にして鉄の墓場へと変わることを。

「ユーゴー。お前が剣聖から授かった『理』、それを試す時が、予想よりも早く来るかもしれん」

「……分かっています、父上」

 ユーゴーは、自らの内に流れる膨大なマナを静かに感じ取った。

 十五歳の修行を経て、彼のマナはもはや暴れる獣ではない。世界の抵抗を透かし、現象と同化するための「透明な力」へと昇華されている。

 だが、地平線を埋め尽くそうとするあの無機質な殺意の群れを前にして、己の「個」がどこまで通用するのか。

 その時、地鳴りのような音が響いた。

 噴火でも、地震でもない。

 数万、数十万という金属の足が、一斉に大地を踏みしめたときに生じる、不快な共鳴音。

 地平線の向こう側。

 銀色の波が、ゆっくりと動き始めた。

 それは春を告げる雪解け水などではない。あらゆる生命を拒絶し、文明という名の贅肉を削ぎ落とそうとする、鋼鉄の激流だ。

「来たか……」

 ユーゴーの薄紫の瞳に、鋭利な光が宿る。

 

 空のオーロラは血のような赤に変色し、帝都から派遣されている通信官たちが「演算不能!」「予測モデルが崩壊しました!」と絶叫する声が、魔法通信を通じて漏れ聞こえてくる。

 最新の魔導演算が導き出した未来予想図は、この瞬間にゴミ屑へと変わった。

 

 そこにあるのは、予測を超えた純然たる「絶望」。

 そして、その絶望を唯一押し止めることができる、一振りの「物理の正解」。

「ウル、各機に伝達。……これより先、演算は一切信じるな。己の腕と、隣の戦友の息遣いだけを信じろ」

了解イエス・マイロード。……地獄の門が開くのを、特等席で見物するとしましょう」

 不穏な静寂が、ついに破られる。

 遠くで「鉄の門」の警報が、悲鳴のように鳴り響いた。

 

 それは、英雄が誕生するための残酷な舞台装置。

 

 ユーゴーはゆっくりと、自分の白い手を見つめた。

 震えてはいない。

 ただ、内なるマナが、来るべき「嵐」を前にして、静かに、しかし激しく、世界を透かし始めていた。

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