第八章:真理
シュバルツ領の最果て、万年雪に閉ざされた「静寂の峰」。
ここは風の音さえも凍りつく、色彩を失った白銀の監獄だ。
十五歳のユーゴー・フォン・シュバルツは、上半身を露わにし、腰まで雪に埋もれながら、ただ一本の鋼鉄の剣を構えていた。
その全身からは、体内を巡る膨大なマナが発する熱によって、陽炎のような蒸気が立ち昇っている。だが、その熱とは裏腹に、ユーゴーの瞳は暗く沈んでいた。
「……何が足りない。何を、間違えた」
一振り。
ドォォォォン、という空気を押し潰す衝撃音。雪原が爆ぜ、視界を白銀が覆う。
だが、その一撃は重い。重すぎるのだ。
脳裏に焼き付いて離れないのは、嘆きの平原で見せつけられたカイゼルの戦い。
ユーゴーが力任せに障壁を叩き割る横で、カイゼルの部隊は最小限の労力で「障壁を無効化」し、流れるように敵を解体した。
自分の剣は、ただの野蛮な暴力。対するカイゼルの演算は、洗練された「世界の法則」そのものだった。
どれほどマナを込めても、どれほど筋力を強化しても、あの冷徹な「最適解」という壁を突破できるイメージが湧かない。
(俺の剣は、結局……ただの『足掻き』でしかないのか?)
黒城勇吾としての焦燥が、今のユーゴーを蝕んでいく。
その時だった。
「――相変わらず、世界を敵に回して戦っておるな、小僧」
背後から響いたのは、枯木が擦れるような低い声。
煤けたローブを纏い、雪の上に足跡一つ付けずに立つ老人。
アルベルト・シュタインベルガー。
かつて帝国最強と謳われながら、演算の普及と共に表舞台から姿を消した、伝説の「剣聖」がそこにいた。
「アルベルト殿……。俺は、勝てなかった。俺の物理は、奴の演算に『誤差』として切り捨てられたんだ」
ユーゴーは構えを解かずに、絞り出すように言った。
アルベルトはゆっくりと歩み寄り、ユーゴーが力任せに振るったことで深く抉れた雪の跡を一瞥した。
「当然よ。お前は巨大なマナで筋肉を固め、無理やり世界をねじ伏せようとしている。お前にとって、この大気は敵、重力は枷、敵の障壁は超えるべき壁だろう? ……そんな『抵抗』だらけの剣が、計算機が導き出す最短ルートに勝てる道理はない」
「なら、どうすればいい! 俺にはマナを身体能力に振る以外に、道はないんだ!」
アルベルトは静かに、腰に差した古びた木剣を抜き放った。
「見ろ、小僧。これが『理』だ」
老人は、ただ無造作に木剣を横に薙いだ。
魔導の励起音も、マナの咆哮もない。
だが、次の瞬間。ユーゴーの目の前にある巨大な氷塊が、音もなく真っ二つに分かたれた。
切断面は鏡のように滑らかで、衝撃波すら起きていない。まるでもともと二つの氷であったかのように、世界がその一撃を受け入れていた。
「……何をした。障壁すら、展開していなかったはずだ」
「マナを『力』にするのではなく、世界と自分を繋ぐ『潤滑剤』にせよ」
アルベルトは木剣を納め、ユーゴーの胸に指を突き立てた。
「物理とは、本来『抵抗』との戦いよ。だが、お前はマナを使い、その抵抗を力で押し通ろうとしている。……ワシの教える真理はその逆だ。マナを肉体の隅々に浸透させ、空気の抵抗、重力の引き、機体の軋み――それらすべてを『自分』の一部として受け入れろ。自分と世界の境界を『透かせ』。そうすれば、世界から『摩擦』が消える」
ユーゴーの脳裏に、電流のような衝撃が走った。
マナで固めるのではない。マナで「透かす」。
自分を硬い「弾丸」にするのではなく、自分を「世界の一部」という透明な現象に昇華させる。
「やってみろ。お前の内側にあるその莫大なマナ、すべてを『調和』のために使い切れ」
ユーゴーは再び目を閉じた。
これまでの修行では、マナを圧縮し、爆発させることばかりを考えていた。
それを今、真逆に変える。
血管を流れる熱いマナを、皮膚の表面から外気へと染み出させるように。雪原を吹く冷たい風と、自分の体温を混ぜ合わせるように。
一秒、十秒、一分。
やがて、ユーゴーの感覚が変容し始めた。
凍てつく風が肌を刺す「痛み」ではなく、自分という形を撫でていく「流れ」として感じられる。
手にする鋼鉄の剣の重みが、腕の延長ではなく、ただそこにあるべき「質量」として意識から消えていく。
(ああ……。俺は、戦っていたんじゃない。世界というシステムの中で、一人だけ『異物』として暴れていたんだ)
カイゼルの演算が「最適解」を導き出せるのは、対象が「世界という法則に従う物体」だからだ。
ならば、自分自身が法則そのものになればいい。
ユーゴーは、ゆっくりと剣を振り上げた。
かつての「剛」のような気負いはない。ただ、そこにあるべき必然として、腕が動き、剣が動く。
――。
音すら存在しなかった。
ユーゴーの正面に積み上がっていた雪山が、巨大な扇状に、塵一つ立てずに消滅した。
切られたのではない。ユーゴーの剣が通った空間から、あらゆる「抵抗」が消失し、物理的な結合が解かれたかのように。
アルベルトはそれを見て、満足げに深く頷いた。
「……ようやく産声を上げたな、シュバルツの仔狼よ。魔導演算とは、世界を数字で捉えようとする傲慢な試み。だが、今のお前は世界そのものとなった。計算機ごときに、自然の現象を予測することはできん」
ユーゴーは、自分の手を見つめた。
震えは止まっていた。
内側に残る黒城勇吾の記憶が、今、この瞬間に初めて、この世界と完全に融け合ったのを感じた。
「感謝します、アルベルト殿。……俺の物理は、ここから始まります」
十五歳の冬。
ユーゴー・フォン・シュバルツは、伝説の剣聖から、魔導工学を過去のものにする「究極の理」を授かった。
それは、後に帝国全土を揺るがす白銀の騎士が、演算不可能な「神の領域」へと至るための、最後の欠片だった。
吹雪が止む。
雲の切れ間から差し込んだ黄金の陽光が、雪原に立つ老人と少年を照らし出した。
(カイゼル。……お前の檻は、もう俺を閉じ込めることはできない)
かつての勇吾が、竹刀一本で辿り着こうとした境地。
それを、異世界のマナという翼を得て、ユーゴーは今、物理の頂へと羽ばたこうとしていた。




