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第5章:オイルの洗礼、あるいは鉄の対話


 「――おい。寝ぼけてんなら、その松葉杖を薪にして燃やすぞ」

 ロキの容赦ない怒声が、夜明け前の冷たい空気の中で響いた。

 カイの新しい朝は、筋肉痛とオイルの強烈な匂いから始まるようになった。

 あの日、格納庫で笑い合ってから一週間。カイはロキの「助手」として、地獄のような修行の日々に身を投じていた。

「いいか、ギアってのは『魔力』で動くが、それを伝えるのは『物理(鉄)』だ。魔力だけが立派でも、血管チューブが詰まってたり、関節ジョイントが歪んでりゃ、ただの置物なんだよ」

 ロキの教えは荒っぽかったけれど、本質を突いていた。

 カイは、重い工具箱を引きずりながら、毎日テツカブラの脚部に潜り込んだ。右膝の古傷は悲鳴を上げていたけれど、不思議と心は軽かった。一条家の冷たい畳の上で、終わりのない監視に耐えていた頃とは、流れる汗の重みが違った。

「……ロキ、このバイパス。三番目のジョイントが、わずかに左に逸れてる」

 カイが煤まみれの顔を上げて言った。

「あ? 数値上は正常だぜ。魔導インジケーターも緑だ」

「数値はそうかもしれないけど……金属が『熱い』って言ってる。魔力が通るたびに、ここで微かな不協和音がしてるんだ。……あと0.2ミリ、受け軸を削って」

 ロキは最初、「また始まったよ」と鼻で笑っていた。けれど、実際にカイの指摘通りに調整を施すと、テツカブラの四肢が、驚くほど滑らかに駆動し始めるのだ。

「……お前、やっぱり化け物だな。俺たちが機械テスターを使って数時間かけて見つける異常を、瞬き一つで言い当てやがる」

 ロキの声には、隠しきれない驚きと、少しの悔しさが混ざっていた。

 一方で、カイもまたロキを尊敬し始めていた。

 どれだけカイの「眼」が正確でも、それを形にする腕がなければ意味がない。ロキの振るうスパナは、まるで魔法の杖のように、カイが視た「正解」を現実に固定していく。

「僕の『眼』と、ロキの『手』。……二つ揃って、ようやくこの子は呼吸できるんだね」

「何言ってやがんだ、お前が俺と肩を並べるなんて10年早えんだよ!」

 カイの言葉を満更でもなく感じているクセに、ロキが大声で反論する。そんなじゃれ合いの最中、ブリッジからシエラが整備デッキに降りてくるのが見えた。

「状況はどう? 明日の朝には帝国領の境界を抜けるわよ」

 その瞬間、ロキの態度が一変した。

 さっきまでカイを怒鳴りつけていたガキ大将のような面影は消え、彼は大急ぎで髪を整え、意味もなくスパナを格好良く回してみせた。

「……あ、ああ、シエラ姉さん。問題ないぜ。俺が……俺と、この助手がバッチリ仕上げてっから。心配しなくていいよ、俺に任せておけよな」

 声のトーンが一段低くなり、必死で「頼れる男」を演じるロキ。

 けれど、鼻の頭には真っ黒なオイルがついているし、緊張のあまりスパナを足の上に落としそうになっている。周りの傭兵たちは「また始まったよ」とニヤニヤしながら、わざとらしく目を逸らしていた。

「そう。期待してるわよ、ロキ」

 シエラはロキの鼻先の汚れに気づきながらも、あえて指摘せずにふっと微笑んだ。その一瞬の微笑みは、普段の氷のような冷徹さを溶かすほどに鮮やかで、カイですら一瞬、目を奪われるほどだった。

 シエラが去った後、ロキは魂が抜けたような顔で立ち尽くしていた。

「……見たか、カイ。今の微笑み。あれは俺の実力を認めてくれた証拠だ。間違いない……」

「……ロキ、鼻の頭にオイルがついてるよ」

「うっせえ! これは……これは勲章だ!」

 顔を真っ赤にするロキを見て、カイは確信した。この師匠は、シエラさんに完全に恋をしている。しかも、それが本人以外にはバレバレだということに、全く気づいていない。

 一方で、シエラもまた、ただの「冷たい上官」ではなかった。

 深夜、カイが一人でテツカブラの脚部に潜り込み、0.2ミリの調整に没頭していた時のことだ。

「……あまり根を詰めすぎると、その膝が持たないわよ」

 いつの間にか背後に立っていたシエラが、温かい飲み物の入ったマグカップを置いてくれた。

 彼女は石版――『カグツチ』のコンテナを見つめ、少しだけ声を落とした。

「この艦の連中はね、みんな何かを失って、ここに辿り着いたの。……私も、ロキも、バルガスも。だから、あんたのその『必死さ』が、他人事には思えないのよ」

 月光に照らされた彼女の横顔には、どこか遠くの故郷を想うような、寂しげな色が混じっていた。

 帝国の『聖域』から略奪を指揮するような苛烈な女性の、ふと見せた人間臭い一面。

「……シエラさんは、何を守りたくて、この仕事を?」

「守りたいものなんて、もうないわ。……ただ、奪われるのが嫌なだけよ」

 シエラは自嘲気味に笑うと、カイの頭にポン、と手を置いた。

「顔、真っ黒。……あんたのその『眼』、使い所を間違えないで。この石版は、英雄を造ることもあれば、化け物を生むこともあるんだから」

 翌朝。

 シエラからの差し入れを自慢するカイの話を聞いて、「俺にはなかったのか!?」と絶叫するロキの声が、平和に響き渡った。

 けれど、その平和を切り裂くように、警報が鳴り響く。

 前方に、死の気配を纏ったジャンク街『バベルの裾野』が見えてきた。

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