第三章:誓約
アーラム・リンゼイを粉砕したあの模擬戦から数日が経った。
シュバルツ領の朝は、肺が凍りつくような冷気に満ちている。ユーゴーは、老剣聖が遺した「剣は理を乗せるもの」という言葉を反芻しながら、夜明け前の訓練場で一人、木剣を振っていた。
(理を乗せる……。ただマナで肉体を固め、力でねじ伏せるだけでは、あの老人の境地には届かない。何かが、足りないんだ)
一振りごとに、己の内側に渦巻く巨大なマナと対話する。だが、それはかつての黒城勇吾が知っていた「武道」の理屈だけでは説明できない、未知の感覚だった。
ふと、背後に柔らかな気配を感じて、ユーゴーは振り下ろそうとした木剣を止めた。
「お兄様! またそんなに薄着で……。風邪を引いたら、お母様がとっても悲しみますよ!」
駆け寄ってきたのは、まだ幼い妹のエレナだった。
彼女は自分の首に巻いていた分厚いウールのマフラーを解くと、背伸びをして、ユーゴーの首元に無理やり巻き付けようとする。
「……エレナ、訓練中だよ」
「訓練より体が大事です! ほら、じっとしていてくださいっ」
一生懸命な妹の様子に、ユーゴーは思わず苦笑し、その場で膝を突いて目線を合わせた。エレナの小さな手が、不器用にマフラーを整えてくれる。その手の温かさが、張り詰めていたユーゴーの神経を、ふっと緩ませていく。
「ありがとう、エレナ。……お前は優しいな」
「えへへ。だってお兄様、いつも怖い顔をして剣を振っているんですもの。まるでお化けと戦っているみたいで」
エレナの無邪気な言葉が、ユーゴーの胸を突いた。
お化け、か。あの日、武道館の静寂の中に置いてきてしまった、自分自身の後悔という名の幽霊。
けれど、目の前で鼻を赤くして笑っているこの少女にとって、俺は「後悔を抱えた転生者」ではない。ただの、優しくて少しストイックすぎる自慢の兄なのだ。
「お兄様、今日の朝ごはんは、お兄様の大好きな蜂蜜たっぷりのパンですよ! 早く行きましょう!」
「ああ。すぐに行くよ。……エレナ、少し背負ってやろうか?」
「わあ、いいんですか!? やったー!」
エレナを背負い、ユーゴーはゆっくりと屋敷への道を歩き出した。
小さな背中の重み。それは、かつて黒城勇吾が背負っていた「勝利への重圧」とは全く異なる、温かくて、守り抜かなければならない「命の重さ」だった。
食堂では、厳格な**父親(辺境伯)**が新聞を広げ、母親が湯気の立つスープをテーブルに並べていた。
ユーゴーがエレナを背負って現れると、母は慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、父はわずかに口角を上げてそれを見た。
「ユーゴー、剣聖殿の言葉への答えは出たか」
「……いえ。まだ、霧の中です。ですが父上、俺はこれまで、自分の力を証明することばかり考えていたのかもしれません」
エレナの髪を撫でながら、ユーゴーは真っ直ぐに父を見つめた。
「この家の『盾』として、皆を守るための剣。そのために必要なのが『理』なのだとしたら、俺はそれを死ぬ気で掴み取ってみせます」
その言葉に、父は満足そうに深く頷いた。
食後、自分の部屋に戻ったユーゴーの元に、一通の手紙が届く。
帝都の気配を纏った、第三公女からの便りだ。そこには、遠く離れた彼を案じ、また再会できる日を待ち侘びる、少女らしい純粋な憧憬が綴られていた。
(黒城勇吾は、たった一人で戦っていた。……でも、今の俺は、一人じゃない)
ユーゴーは、手紙を大切に机にしまった。
前世の記憶という「呪い」が、この世界の温かな「絆」によって、少しずつ「力」へと浄化されていくのを感じる。
誰に言われるでもなく、彼は再び木剣を手に取った。
それはまだ、何者とも知らぬ「宿命のライバル」のためではない。
ただ、この安らかな朝食の風景を、エレナの笑顔を、そして自分を信じてくれる人々を守るための、「最強」への第一歩だった。
「……見ていてくれ。俺は、俺自身の正解を見つけてみせる」
朝焼けの陽光が、白銀の髪の少年を照らす。
十三歳のユーゴー・フォン・シュバルツ。
彼は今、前世の影を振り払うように、力強く、そして穏やかに、新たな研鑽の海へと漕ぎ出していった。




