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第29章:亡霊の牙、あるいは沈黙の回廊

シルヴァン樹海・深部。

 「沈黙の回廊」と呼ばれるその場所は、日光を完全に遮断した巨大樹の天蓋と、両側から迫る断崖によって、昼なお暗い深緑の牢獄と化していた。

 環境は最悪の一言に尽きた。

 地面は腐葉土が湿気で発酵し、底なしの泥濘ぬかるみとなっている。その下を、血管のようにのたうち回る巨大な樹根が這い、重量のある機体にとっては一歩踏み出すたびにバランスを崩しかねない「鉄の罠」だ。

「……っ、この足場、最悪だわ!」

 最後尾を守るラッド・スパイダーのコクピットで、ベッキーが毒づいた。

 四脚機の利点を活かして接地圧を分散させているが、それでも泥に足を取られ、関節の魔導駆動部が泥水を吸って不快な異音を上げている。

 視界もまた、彼らの神経を磨り減らしていた。

 マナを豊富に含んだ胞子が濃霧と混じり合い、センサー類には常に砂嵐のようなノイズが走る。

 「神童の眼」を持つカイでさえ、数メートル先の景色が陽炎のように歪んで見えた。

「……リト、現在位置は?」

 カグツチのコクピット内で、カイが尋ねる。

『……計算不能。マナの密度が異常よ。磁場も狂ってる。GPS信号は完全に途絶したわ。……ねえカイ、この霧、ただの霧じゃない。高度な**指向性魔導干渉マギ・ジャミング**によって空間の座標認識そのものが書き換えられてる』

 実体化したリトが、不快そうに空中のノイズを指で払う。カイから離れられない彼女にとって、この密閉されたコクピットの中だけが唯一の「現実」だった。

 その時。

 先導していたマルクが、唐突にG-スキフの出力を下げ、停止した。

 彼らがいたのは、谷が最も狭まり、逃げ場のない「袋小路」のような地点だった。

「マルクさん? どうかしたんですか?」

 スキフの助手席で、シエラが不安げに尋ねる。

 だが、答えは返ってこない。マルクは無言でスキフから飛び降りると、ぬかるんだ地面に音もなく着地した。その足取りは、先ほどまで「足場が悪い」とこぼしていた男のそれとは到底思えないほど、極めて安定していた。

「……任務、完了です」

 振り返ったマルクのかおには、一切の感情がなかった。

 昨日まで見せていた誠実な微笑みは、熟練の工作員が纏う「皮」に過ぎなかったのだ。

「ターゲットを沈黙の回廊へ誘導。……これより、最終処置に移行します」

 マルクが襟元の通信機に囁いた瞬間、森の「静寂」が牙を剥いた。

 ザザッ――!!

 カグツチの全センサーが、突如として最大警戒の咆哮を上げた。

『全方位から魔導反応! 隠密結界を解除してくるわ!!』

 リトの悲鳴。モニターは赤黒いノイズに沈み、コクピット内は異常を知らせる警告灯で染まる。

 暗い霧の中から、滲み出るように現れたのは、漆黒の機体群だった。

 カマキリのような細長い多脚。光を吸収する艶消しの装甲。

 帝国の最新鋭隠密機『スペクター・ボーン』。

 彼らの手に握られているのは、カグツチのような「科学の刃」ではない。

 大気中のマナを強制吸着し、高熱のプラズマへと変換する魔導熱線鎌マギ・プラズマ・サイズ

 一機、二機……いや、霧の奥にはさらに数機が潜んでいる。

 彼らは泥濘の中を「浮遊」するように移動する。魔導による慣性制御で、足場の悪さを完全に無視しているのだ。

「……ハメられたのか、俺たちは……!」

 カイは歯噛みしながら、カグツチの操縦レバーを握り締める。

 右腕を欠いたカグツチにとって、この劣悪な足場での近接戦闘は、物理的な不利が大きすぎる。ましてや、敵は「魔法」で物理法則を捻じ曲げてくる亡霊だ。

「ベッキー!! スキフを守れ!!」

「言われなくても分かって……っ!?」

 ベッキーが機体を旋回させようとした瞬間、泥の下に隠されていた「根」がラッド・スパイダーの脚に絡みついた。

 

 ヒュンッ――!!

 霧を切り裂く、紫電を纏った魔導の刃。

 スペクター・ボーンの一機が、空間を焼き切りながらベッキーの機体へ襲いかかる。

「きゃあああああっ!!」

 反射的に防御姿勢を取るが、魔導の熱線はラッド・スパイダーの装甲を瞬時に溶解させ、脚部の油圧ラインを焼き切った。

「ベッキー!! ……くそっ、見えない……どこにいる!!」

 カイがカグツチを突き動かそうとするが、重厚な鉄の脚が、執拗に泥濘の中へ沈み込んでいく。右腕がないせいで重心が安定せず、無理な機動をすれば、そのまま転倒して「鉄の棺桶」になる。

「無駄ですよ、カイさん。この森は、我ら『幻影スペクター』の胃袋の中だ」

 マルクが魔導長弓を構える。その矢先――マナを凝縮した破壊の光――は、震えるロキとシエラの眉間に固定されていた。

「あなた方は、ここで死ぬ。……それが帝国の下した、最も合理的な結論です」

 スペクター・ボーンたちが、円陣を組み、ゆっくりと、確実に包囲網を狭めていく。

 レーダーは死に、足場は崩れ、視界は白濁した霧に閉ざされている。

 「神童の眼」さえも、重なり合うマナの奔流に遮られ、実体のない亡霊たちの正確な位置を捉えきれない。

 一機のスペクターが、無防備なG-スキフへと熱線鎌を振り上げた。

 シエラが恐怖に目を見開き、ロキが絶望に顔を歪める。

「……やめろぉぉぉぉッ!!」

 カイの絶叫が虚しく谷底に響き渡る。

 だが、その鎌が空気を焼き切るよりも早く、霧の彼方――垂直に近い断崖の頂から、**「それ」**は飛来した。

 ズドォォォォォンッ!!

 大気を強引に押し広げる衝撃波と共に、一発の「鉛の塊」が霧を貫通した。

 それは熱線鎌を振り上げていたスペクターの頭部を、一瞬で鉄屑へと変え、背後の巨樹へと深々とめり込ませた。

「なっ……!? 魔導障壁を、物理弾で貫通した……!? 反応がない、狙撃だと!?」

 マルクが驚愕に目を見開く。

 帝国の最新鋭隠密機が誇る魔導障壁は、マナの干渉に対しては無敵に近い。だが、火薬の爆発力のみをエネルギーとし、魔法を一切帯びていない純粋な質量の衝突――「物理の暴力」に対しては、その計算式を適用することすらできなかった。

『……信じられない。マナのノイズを完全に無視して、弾道が最短距離で「正解」を射抜いているわ……!』

 コクピットの中で、リトが驚愕の声を上げる。

「ギリアスさん……!」

 カイは、霧の切れ間、遥か上空の断崖を見上げた。

 そこには、霧を物理的に押し退け、悠然と佇む「鋼鉄の死神」がいた。

 全高10メートル。極限まで贅肉を削ぎ落とし、蜘蛛のような長い四肢を持つ、深緑の魔導鎧。

 機体名は、『シュトルム・ディガー』。

 その右肩から背部にかけて連結されているのは、機体全高を優に超える巨大な鉄の筒――対物ライフル《グレイブ・ディガー》だ。

「……あー。……お前ら、場所代の払い込みが遅れてんぞ」

 スピーカー越しに響くのは、酷く退屈そうな男の声。

 シュトルム・ディガーが、その長い右腕でライフルを水平に構え直す。

 ガチャン、という巨大な金属音が谷底まで響き渡った。

 ズドンッ! ズドンッ!!

 流れるような連射。

 それは魔導鎧とは思えぬ、精密機械のようなリズミカルな死の刻印だった。

 一発はスキフを狙っていた別のスペクターの脚部を粉砕し、もう一発はベッキーを追い詰めていた機体の腕部を、肘から先ごと消失させた。

「……あ、あいつ、あの巨体で、あの距離から……!?」

 泥濘の中でもがいていたベッキーが、唖然として空を見上げる。

 ギリアスは、シュトルム・ディガーの巨体を断崖に深く固定し、機体重量のすべてを「射撃の安定」のためだけに注ぎ込んでいた。

 マナを動力にしながら、その出力のすべてを火薬の爆速と弾道の計算のみに変換する――「魔導を殺すための魔導鎧」。

『全機、散開! 狙撃地点を特定しなさい!!』

 ベルティナの絶叫がスペクターたちの通信に響く。

 だが、ギリアスは再び大きな欠伸をすると、シュトルム・ディガーの長い指先で巨大なボルトを引き、新たな弾丸をチャンバーへと送り込んだ。

「……おい、坊主。……ぼさっとしてんじゃねえぞ」

 ギリアスの声が、スピーカーの震動と共にカイの耳に届く。

「……死神の射線は一本だけだ。……あとは、お前がその『欠陥品』で道をこじ開けな」

「……っ、了解!!」

 カイの瞳に、再び「神童」の光が宿る。

 シュトルム・ディガーの放つ「鉛の福音」が霧を切り裂くたびに、そこに一瞬だけ真空の道ができる。

「リト、出力を右脚に集中!! 泥濘ごと、空間を叩く!!」

『いいわよ、カイ! ……教えてあげなさい、本物の「物理」がどれだけ重いかを!』

 カグツチの全身の歯車が、一億分の一秒の狂いもなく噛み合う。

 泥濘に沈んでいた右脚が、爆圧と共に地面を蹴り飛ばした。

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