第25章:緑の宿場町、あるいは酔いどれのダメ人間
北嶺の冷たい白銀の世界は、国境を越えた瞬間、暴力的なまでの「緑」と「湿気」に塗り潰された。
大陸東部、連合国家群『森の国・シルヴァン』。
空を覆い隠す巨大樹の天蓋。地面から立ち昇る濃厚な水蒸気。ガンドック号の無限軌道が、湿った腐葉土を踏みしめるたびに、グジュ、グジュと不快な音を立てる。
「……最悪だ。湿度が95%を超えてやがる」
整備デッキで、ロキが亡霊のような顔をして湿度計を睨んでいた。
「おいカイ、聞いたか今の音。装甲の継ぎ目で結露した水滴が落ちる音だ……。あれは鉄の悲鳴だぞ。このままだと、俺たちの愛機が全身錆まみれのカサブタになっちまう……!」
ロキは半狂乱になりながら、防錆スプレーを両手に持って船内を走り回っている。
ガンドック号はその巨体ゆえに、森の入り口にある宿場町『モスサイド』の中へは入れず、外れの駐機スペースに錨を下ろした。
タラップを降りた一行を迎えたのは、ムッとするような熱気と、甘ったるい花の香り、そして何かが腐敗したような森特有の臭いだった。
モスサイドは、巨大な樹木の根元に寄生するように作られた、奇妙な街だった。
木造の建物はどれも鮮やかな苔に覆われ、動力源である蒸気機関のパイプがあちこちから突き出し、シュウシュウと白い煙を吐き出している。マナの光に頼る中央諸国とは違う、古臭くも力強い、植物と鉄が融合した独特の景観だ。
「へえ……。すごい所だね」
カイが感嘆の声を上げる。隣には、周囲を警戒して実体化したリトが寄り添っていた。
『……ノイズが酷い。この森全体が、マナを含んだ胞子で満たされているわ』
リトは不快そうに顔をしかめながら、自身の欠損した右肩を強く握りしめた。
『でも……聞こえる。この湿った空気の向こう側、深い森の底から……私の「片割れ」が呼んでる』
「うん。必ず迎えに行こう」
一行は、情報収集と補給のため、街へ繰り出した。
通りは、森の恵みを売る行商人や、一攫千金を狙って遺跡へ潜ろうとする荒くれた傭兵たちでごった返している。
ロキは「最高級の防錆オイル!?」と書かれた看板を見つけて目の色を変えて飛び込み、バルガスは屋台から漂うスパイスの効いた肉の匂いに鼻をひくつかせている。シエラだけが、泥でヒールが汚れるのを極端に嫌がりながら、不機嫌そうに歩を進めていた。
目指すは、街一番の賑わいを見せる酒場『古木の洞』。
カラン、コロン。
錆びついたドアベルを鳴らして中に入ると、安酒とタバコの煙、そして男たちの汗臭い熱気が押し寄せてきた。
「へい、いらっしゃい! 見ない顔だね」
無愛想なマスターが、カウンターを布巾で叩く。
バルガスがドカッと椅子に座り、一番強い酒を注文する。店内の話題は、もっぱら今朝起きた「ある事件」で持ちきりだった。
「おい、聞いたか? 今朝のニュース」
「ああ、帝国の機甲部隊が全滅したって話だろ? 国境付近の森で」
「12機だぜ? しかも生存者ゼロ。……やっぱり出るんだよ、あそこには。『灰色の死神』が」
隣のテーブルの男たちが、声を潜めて話している。
「死神?」
カイが聞き耳を立てる。
「ああ。この先の深い森……『未踏領域』に近づく奴は、帝国軍だろうが盗賊だろうが、みんな見えない弾丸で頭を吹き飛ばされるんだ。……あそこは、俺たち人間が入っちゃいけない聖域なのさ」
シエラが顔をしかめる。「……厄介ね。目的地はその『聖域』のど真ん中よ」
その時だった。
店の奥から、怒号と共に何かが転がり出てきたのは。
「おい! 離せ! 俺はまだ飲めるんだよぉ!」
「うるせえ! ツケが払えねえなら帰んな、このろくでなしが!」
マスターに襟首を掴まれ、ズルズルと引きずられてきたのは、ボロ雑巾のような男だった。
ボサボサの黒髪に無精髭。ヨレヨレのポンチョからは、酒とタバコの悪臭がプンプンする。
ドンッ! と突き飛ばされ、男はカイの足元に見事に転がった。
「……いってぇ……。世知辛い世の中だぜ……」
男――ギリアスは、地面に寝転がったまま大げさに嘆くと、ふと顔を上げた。
その死んだ魚のような濁った目が、シエラの冷ややかな美貌を捉えた瞬間、カッと見開かれた。
「おぉ……! 森の女神か!? あんた、俺に酒を恵むために天から降りてきたんだな!?」
ギリアスはすがりつくようにシエラの足元へ這い寄る。
「なあ女神様、俺のツケを払っちゃくれねえか? 今ならサービスで、俺の『熱い夜』もついてくるぜ?」
「……死ねば?」
シエラは表情一つ変えず、ギリアスの顔面をヒールのつま先でグリグリと踏みつけた。
「ぐべぇっ!?」
カエルの潰れたような声を上げて、ギリアスは悶絶する。
「あ痛たた……! き、キツイのがお好きか……それもまた良し……」
そのまま白目を剥いて、幸せそうに気絶してしまった。
「……うわぁ」
カイとロキの声がハモる。バルガスも呆れ果てて口を開けたままだ。
「なんだこいつは。……おいマスター、ここの治安はどうなってるんだ?」
「すまねえな、お客さん」
マスターが額の汗を拭いながら溜息をつく。
「こいつはギリアス。この街一番のクズだ。昼間から酒飲んで、女と見れば声をかけ、なけなしの金は全部ギャンブルでスッちまう。……昔は凄腕だったとかいう噂もあるが、これじゃあ誰も雇わねえよ」
「……こんなのが『凄腕』? 冗談だろ」
ロキが鼻で笑う。床で高いびきをかき始めたギリアスは、だらしなく口を開け、ヨダレを垂らしていた。とてもじゃないが、帝国の精鋭部隊を壊滅させた「死神」と同一人物には見えない。
カイは、倒れているギリアスの手をふと見た。
爪の間は泥と油で黒ずんでいる。
……そして、鼻をつく安酒の臭いに混じって、わずかに漂う独特の匂い。
(……火薬?)
整備士として慣れ親しんだオイルの匂いとは違う、もっと乾いた、焦げ付くような硝煙の匂い。
けれど、目の前の男があまりにも情けなく「むにゃむにゃ……ねーちゃん、もう一杯……」と寝言を言っている姿を見て、カイはその違和感を頭の隅へと追いやった。
「放っておこう。関わるとロクなことにならなそうだ」
カイの言葉に、全員が深く頷いた。
シエラに至っては、ヒールが汚れたと言わんばかりに不快そうに床を拭いている。
一行は、床のゴミ(ギリアス)を跨いで、奥のテーブル席へと向かった。




