リバースサイド:プロローグ「残照」
「君、絶対に強くなるよ!」
剣道の全国大会、一回戦負け。
自分の不甲斐なさと、重い防具の感触に打ちひしがれていた俺に、不意にそんな声が降ってきた。
顔を上げると、そこには驚くほど小柄な少年が立っていた。
それが、今大会の最注目株にして『天才』一条魁だと理解するのに、少しの時間を要した。
内心は、心臓が飛び出るほどビビっていた。何せ声をかけてきたのは、界隈のスターだ。けれど、強がりの塊だった俺は、精一杯の虚勢を張って言い返したんだ。
「……は? 誰だお前。一回戦で負けた奴を冷やかしに来たのかよ」
最悪な態度だった。けれど、彼はそんな無礼を気にする様子もなく、ただ純粋に俺の中に眠る「原石」を見つめていた。
「ううん、本気で言ってるよ。君の踏み込み、地面が揺れてた。あんなに重い一歩、僕には一生真似できない。磨けばきっと、誰にも届かない場所に行けるよ」
あの日、俺の心に「勇吾」という名の火が灯った。
小学生の頃から体格に恵まれていた俺は、その利点を活かした「剛」の剣を得意としていた。鍔迫り合いを力で制し、上段から苛烈な面を叩き込む。地方大会を無敗で勝ち抜いた俺は、完全な「お山の大将」として天狗になっていたんだ。
その鼻をへし折られた場所で、カイは俺の「重さ」を、彼を捕まえるための「強さ」だと肯定してくれた。
それからの三年間、俺の視線の先にはいつもあいつがいた。
他者から見れば一足飛びに見えたであろう成長速度で、俺は死ぬ物狂いでカイの背中を追いかけた。
そして迎えた、中学剣道選手権、決勝。
相手は三年間、いやそれ以前から公式戦無敗の絶対王者――一条魁。
試合は、誰もが息を呑む激闘になった。俺の重い一撃と、カイの鋭敏な「速さ」が火花を散らす。
(届く……今日、俺はカイに届くんだ!)
確信に近い手応えを感じた、その時だった。
不意に、カイの纏う空気が変わった。これまで積み上げた三年間を一瞬で置き去りにするような、次元の違う「加速」。
俺の感覚すら反応できない速度。
完敗だ――そう覚悟した、その刹那。
パキィィィン――。
静まり返った武道館に、氷が砕け散るような、硬く乾いた音が響き渡った。
俺の目の前で崩れ落ちる、唯一の好敵手。
勝利を手にしたはずの俺の手に残ったのは、歓喜などではなく、親友を壊してしまったという悍ましいまでの罪悪感だけだった。
「……カイ」
声をかけたが、彼は二度と立ち上がらなかった。
担架で運ばれていく親友の、あの絶望に染まった瞳が、いつまでも網膜に焼き付いて離れない。
俺の手には、何の価値もない「日本一」の称号だけが残された。
それからの毎日は、泥を噛むような虚無だった。
「怪我さえなければ彼が勝っていた」という世間の無責任な囁きも、やがて「あいつももう終わりだね」という冷淡な無関心へと変わっていった。
だが、一番残酷だったのは自分自身だ。
あの日以来、どんなに稽古を重ねても、俺の剣は空を切るばかり。
追いかけるべき背中を見失い、俺を肯定してくれた唯一の光を、俺自身の手で壊してしまった。
高校に進学しても、俺の心はあの日、あの瞬間の武道館に立ち尽くしたままだ。
「強くなる」という約束は、果たされることのない呪いとなって俺を縛りつける。
世界は色を失い、時間はただ、粘り気のある沈黙を伴って過ぎていく。
俺が信じた「重さ」も、研鑽を積んだ「強さ」も、守りたかった「親友」も――。
そのすべてが、あの一音と共にへし折れてしまった。
――俺の物語は、ここで終わったんだ。
そう思いながら、あてもなく街を歩いていたある日の夜。
どこへ行きたいわけでもない。ただ、止まってしまうとあの一音が蘇る。それを振り払うように、引きずられるような足取りで夜の帳を彷徨っていた。
ふと、視界の端に強烈な光が差し込んだ。
信号を無視して突っ込んできた大型トラックのヘッドライト。
その光に射抜かれたように、道路の真ん中で少女が転んでいる。
刹那、思考よりも早く、俺の「重い」はずの足がアスファルトを蹴った。
あの日、親友が倒れるのをただ見ていることしかできなかった後悔が、身体を突き動かしたのかもしれない。
「――っ!!」
少女を突き飛ばし、代わりに視界を埋め尽くした鉄の壁。
凄まじい衝撃と、遠ざかるクラクションの音。
俺の意識は、そこで深い闇へと沈んだ。
次に目覚めた時。
俺は、白銀の髪と薄紫の瞳を持つ少年、ユーゴー・フォン・シュバルツになっていた。




