幕間:鉄の揺り籠、あるいは解けゆく氷――ウラジミールの独白
揺れている。
この振動は、マナ機関が奏でる天上の音楽のような滑らかな和音ではない。不規則で、荒々しく、まるで巨大な心臓がドクンドクンと脈打つような、原始的な鉄の鼓動だ。
意識の淵で、私はそのリズムを聞いていた。それは、私が捨て去ったはずの「下界」の音に似ていた。
私は、持たざる者だった。
教国辺境、万年雪に閉ざされた貧しい教会の孤児院。それが私の世界の全てだった。名などない。親の顔も知らぬ。ただの「口減らし」として預けられた、痩せこけた子供の一人。
冬の夜は残酷だ。隙間風が吹き込む礼拝堂で、私たちは身を寄せ合い、凍える指を擦り合わせながら、配給の薄いスープを啜った。
そんな私にとって、稀に巡回に訪れる聖騎士たちは、まさしく「神」そのものだった。
汚れ一つない白銀の鎧。マナの光を纏い、飢えも寒さも寄せ付けない絶対的な強者。彼らが落としていくパンの一欠片が、私たちにとっては黄金よりも輝いて見えた。
――ああなりたい。
あの白く、美しく、強い光の一部になりたい。
そうでなければ、この凍てつく泥の中から抜け出すことなどできないのだと、幼心に悟っていたのだ。
転機は、先代聖騎士団長――私の師となる御仁の気まぐれだった。
孤児院の裏庭で、木の棒を振り回していた私に、彼は目を留めた。
『良い目だ。飢えているが、卑しくはない』
その一言が、私の運命を変えた。
教国中央への道が開かれたが、そこは茨の道などという生易しいものではなかった。名門貴族の子弟が集う騎士学校。魔導の才能(血統)が全てを決める世界で、マナ適性の低い「野良犬」に向けられる視線は冷徹だった。
だから私は、誰よりも剣を振った。
彼らが優雅なティータイムを楽しんでいる間、私は手が爛れ、皮が剥け、骨が見えるまで木剣を振るい続けた。マナが足りぬなら、技術で補う。血統がないなら、忠誠で埋める。
眠る間も惜しみ、教典を暗記し、武術を磨き、魔導理論を叩き込んだ。
私の身体は、傷と努力で出来ている。あの白亜の鎧の下にあるのは、選ばれた者の肌ではない。泥水を啜ってでも這い上がろうとした、執念の塊なのだ。
師は、そんな私を厳しくも温かく導いてくださった。
『ウラジミールよ。力は民のために。剣は正義のために。その出自を恥じるな。痛みを知る者こそが、真の守護者となれるのだ』
その教えを、私は疑わなかった。
師が勇退される際、後任として私を推挙してくださった時の震えるほどの感動を、今でも覚えている。
時の教皇聖下もまた、出自に囚われず、私の実直さを愛してくださった。
「其方のような無垢な魂こそ、エリュシオンの象徴に相応しい」と。
史上最年少での聖騎士団長就任。それは、孤児院の子供が見た夢の、到達点のはずだった。
だが、光が強ければ、影もまた濃くなる。
枢機卿たち、高位魔導師たち、そしてヴァレリウス卿。
彼らにとって、私の存在は「目の上の瘤」であり、同時に「都合の良い飾り」でしかなかった。
汚職を嫌い、裏取引に応じず、ただひたすらに清貧を貫く私を、彼らは陰で「白痴の騎士」と嘲笑っていたことを知っている。
『あいつは綺麗すぎて使いにくい』
『だが、民衆受けはいい。面倒な汚れ仕事は我々がやり、あいつには手を振らせておけばいい』
聞こえないふりをしてきた。私が清くあれば、いつか彼らも正されると信じていた。
だが、違ったのだ。
彼らは私の「白さ」を利用し、その裏でどす黒い「毒」を世界に撒き散らしていた。私が民に笑顔を向けている間に、その背後でシエラの父のような無実の者が殺され、カイのような子供たちが「不具合」として処理されていた。
私は、守護者などではなかった。
私は、彼らの悪行を隠すための、煌びやかな「蓋」だったのだ。
……ズキリと、脇腹の傷が疼く。
カイを庇った時の傷だ。
あの時、私の身体は思考よりも先に動いた。マナなどない。名誉もない。ただ、目の前で少年が殺されることを拒絶した。
不思議だ。あの一撃こそが、私が聖騎士になってから放ったどの剣技よりも、最も「騎士らしい」一撃だったように思える。
一条 魁。
あの少年は言った。『あんたの正義が泥を被ったっていうなら、これからはその泥を洗うために生きてみろよ』と。
そして、かつての敵将バルガス・ギリアム。
彼らは知っているのだ。生きるとは、綺麗事ではないことを。飯を食い、排泄し、泥にまみれ、それでも明日を掴み取るために足掻くことだと。
この船に満ちている油の臭い。それは、私が孤児院で嗅いでいた「生」の臭いに似ている。
皮肉なものだ。世界の頂点に上り詰めたはずの私が、全てを失って流れ着いたこの鉄屑の船で、初めて安らぎを感じているとは。
私は、戻らねばならない。
あの白亜の塔へ。あの腐敗した蛇たちの巣窟へ。
私の「白さ」が嘘だったとしても、私を信じて祈りを捧げる民たちの想いまでが嘘になってはいけない。
ヴァレリウスは死んだが、根は残っている。私が去れば、また別の、より御しやすい人形が据えられ、民は永遠に搾取され続けるだろう。
ならば、演じようではないか。
愚直で、清廉で、何も知らない「聖騎士ウラジミール」を。
この身に泥を塗りたくり、笑顔の下で牙を研ぎ、いつか必ず、あの中枢を食い破るその日まで。
意識が沈んでいく。
鉄の揺り籠が、傷ついた孤児をあやすように揺れている。
次に目覚める時、私はもう、ただの操り人形ではない。
ガンドックから「生きるための牙」を授かった、一匹の狼として目覚めるのだ。
……腹が減ったな。
目覚めたら、あの塩辛いスープを、もう一杯所望するとしよう。
あれこそが、私が新しく知った「真実」の味なのだから。




