第2章:黒鉄の揺りかご、あるいは安らぎの楽園
揺れている。
鉄と油の臭い。耳を劈くような駆動音。
カイは、バルガスの機体『テツカブラ』の操縦席の後ろ、狭い予備スペースに押し込められていた。
(……なんで。どうして、僕はここにいるんだ……?)
視界がチカチカと点滅する。
さっきまで、僕はあの暗い部屋にいた。澪の、湿った指先の感触がまだ唇に残っている。あの白磁のような肌、甘ったるい花の香りが、この汚泥と硝煙の臭いと混じり合って、脳を激しくかき乱す。
外から聞こえるのは、聞いたこともない言語の怒号と、金属が激突する悲鳴。
これが夢なら、どれほどいいだろう。
だが、右膝から伝わってくる「熱」だけが、あまりに冷酷なリアリティを持ってカイを繋ぎ止めていた。
「おい、坊主! 生きてるか! 舌を噛まねえように気をつけな、ここからが一番揺れるぞ!」
バルガスの怒鳴り声。
カイはその声に返事をする余裕すらなかった。ただ、手近なパイプを、指の関節が白くなるまで握りしめる。
一条家で教わった作法も、学校で学んだ知識も、ここには何一つ存在しない。
まるで、世界という名の巨大な胃袋に飲み込まれ、ドロドロに溶かされているような感覚。
「が……ぁ……っ」
胃から酸っぱいものが込み上げる。
混乱と恐怖。そして、あの澪の支配から「逃げ出せた」という罪悪感に近い安堵。それらが綯い交ぜになり、カイの精神をボロボロに削っていく。
やがて、衝撃が止まった。
プシューッ、という蒸気の抜ける音と共にハッチが開く。
「……着いたぜ。ここが俺たちの城、ガンドック号だ」
差し込まれた光は、決して明るいものではなかった。
巨大な移動要塞の格納庫。無数のギアが繋がれ、火花が飛び散る、薄暗い鉄の洞窟。
カイはバルガスに抱え下ろされるようにして、地面に足をつけた。
膝が笑い、そのまま崩れ落ちそうになる。
「ひゃあ……! バルガスさん、また妙な拾い物をしてきましたね!」
そこに飛び出してきたのが、赤みがかった髪を逆立て、くるくると良く動く鳶色の瞳を持った少年、ロキだった。
鼻の頭についた煤すら彼の快活さを強調しているようだが、その天真爛漫な声ですら、今のカイには鋭利な棘のように刺さる。
ロキが好奇心全開で顔を近づけてきた時、カイは思わず、身を引いた。
(この人は、何を言っているんだ? ……服? 素材? ……何を言っているんだ、この子は)
言葉は通じている。脳の奥底に直接意味が流れ込んでくる。
けれど、心が追いつかない。カイの瞳は焦点が合わず、ただ虚空を彷徨っていた。
そんなカイの様子を見て、後方にいた小柄な女性、シエラが短く言った。
「……バルガス。その子、ショック状態で何も入ってないわよ。まずは静かな場所へ」
銀髪を無造作に束ねた彼女は、その小柄な体躯に似合わぬ、戦場を渡り歩いてきた者特有の粗野な口ぶりをしていた。だが、形の良い唇の端に漂う気怠げなニュアンスには、隠しようのない妙な色気がある。
「……ああ、そうだな。いきなり地獄を見せすぎちまったか」
バルガスが、今度は少しだけ優しく、カイの肩を叩く。その手の重みが、ようやくカイを「今」という時間に着地させた。
連れて行かれたのは、薄暗いが清潔な医療区画だった。
硬いベッドに横たわった瞬間、カイは初めて、自分の呼吸が異常に浅くなっていたことに気づく。
(逃げてきた……。僕は、あそこから……)
意識の端っこで、澪の絶叫がリフレインしている。
『行かせないわよ、カイ!!』。
その声から遠ざかるほどに、孤独がカイを包み込んでいく。
だが、その静寂を破ったのは、ロキが持ってきた一椀のスープだった。
「ほら、食えるか? 食い物くらいしか、あんたを元気にする方法、思いつかないからさ」
ぶっきらぼうに差し出された、木彫りの器。
澪が用意する完璧な懐石料理でも、病院の無機質な食事でもない。
具材がゴロゴロと入った、野性味溢れるスープの香りが、カイの鼻腔をくすぐった。
震える手でそれを口に運ぶ。
熱い。そして、驚くほど濃厚な味が、凍りついていたカイの内臓を無理やり叩き起こした。
「……あ……」
一口。また一口。
飲み込むたびに、現実感が戻ってくる。自分が生きていること。ここが、日本ではないどこかであること。
そして――もう自分を縛る「一条」という鎖が、この世界には届かないこと。
「……一条……カイ、です」
ようやく絞り出した声は、ひどく掠れていた。
けれどそれは、彼がこの世界で自らの意志で発した、最初の言葉だった。




