第17章:凍てつく確信、あるいは離反の狼煙
北嶺の樹海は、侵入者を拒む沈黙に支配されていた。
ガンドック号が雪を蹴立てて進むたび、針葉樹の枝から重い落雪が鈍い音を立てて崩れ落ちる。目的地である『静寂の修道院』まではあと数マイル。だが、その距離が縮まるにつれ、艦内の空気は物理的な重圧を伴って変質し始めていた。
「……あ、つ……。カイ、……なによ、これ……」
カグツチのコクピット。予備座席で実体化していたリトが、突如として自らの胸をかきむしり、前のめりに崩れ落ちた。
「リト!? しっかりしろ、どうしたんだ!」
カイが慌ててその身体を抱き止める。リトの肌は、マナを持たぬはずの彼女にはあり得ないほどの熱を発し、その赤茶の瞳はノイズが走ったように激しく明滅していた。
『……共鳴が、強すぎる。あそこに……私の「何か」がいる。でも、それだけじゃない……。これ、痛いわ。冷たいマナが、私の回路を……内側から焼き切ろうとしてる……!』
リトの悲鳴に近い通信は、ブリッジにも届いていた。
「やはりね。……ナッツ、ガストン。全機、機を止めなさい。バルガス、カイ。緊急会議よ」
通信回線に割り込んだシエラの声は、いつになく低く、そして凍りついていた。
数分後、薄暗い作戦室。
シエラは中央のテーブルに、あのアタッシュケースを乱暴に叩きつけた。中には、北方諸国連合から「移送」を依頼されたあの石版が収まっている。石版は今や、どす黒い青光を放ち、周囲の空間そのものを歪めるほどの圧を放っていた。
「シエラ、説明しろ。まだ村の入り口だ。なぜ足を止める」
バルガスが険しい表情で問う。シエラは震える指で煙草を咥え、火を点けぬまま、石版を憎々しげに睨み据えた。
「今回の依頼、カグツチのキーの移送なんてものは、真っ赤な嘘よ」
シエラは視線を落とし、自身の指先を見つめた。脳裏に蘇るのは、黄金のイコンと香炉の煙。そして、白大理石の床に引かれた、父の血の跡。
「……私の父は、教国の考古学者だった。彼はカグツチの封印を研究し、ある事実に辿り着いたの。カグツチがマナを必要とせず、純粋な物理法則だけで完成された超科学の粋であるという真実。……そして、教団がそれを隠蔽するために、父を異端として葬り去ったこともね」
彼女の脳裏で、異端審問官ヴァレリウスの不気味な笑い声がリフレインする。
「父が最後に遺したデータに、この石版の正体が記されていたわ。……これは起動キーじゃない。教団が万が一の『再臨』に備えてばら撒いた、対カグツチ用の自動抹殺デバイスよ。本体が失われたパーツに近づいた瞬間、石版は増幅器となって、封印のマナを本体へ逆流させる。つまり、リトが『完全』になろうとした瞬間に、その人格を焼き切るための自爆装置なのよ」
静まり返る作戦室。カイは、リトの震える手を握りしめたまま、拳を白くなるほど固く握った。
「じゃあ……あの依頼人は、最初からリトを殺すつもりで僕たちにこれを?」
「偶然なのか、運命なのか。カイがリトを拾うよりずっと前から、ガンドック号の片隅で眠っていたこの石版が、目覚めたリトを感知してしまった。……教団は今頃、自分たちの手を汚さずに『バグ』が自滅するのを、高みの見物で待っているはずよ」
シエラはアタッシュケースを抱きしめるように力を込めた。
「……でも、あいつらは一つだけ計算を間違えたわ。父が解けなかったこの石版の術式、今の私なら『書き換え』られる」
シエラは顔を上げ、カイとバルガスを真っ直ぐに見据えた。
「依頼内容はここで放棄よ。私たちはこれ以降、依頼人にとっても教国にとっても『裏切り者』になる。……でも、あそこにはリトの兵装が眠っている。なら、奪い取りましょう。私がこの石版の制御を乗っ取り、マナの逆流を反転させる。その隙に、あの子の新しい『力』を掴み取るのよ」
「……フン、元より連合の顔色を窺って生きる柄じゃねえ」
バルガスが口角を上げ、巨体を揺らして立ち上がった。
「ロキ、急げ! 装甲の氷を剥がせ! カイ、準備はいいか。ここからは仕事じゃねえ。……『家族』の喧嘩だ!」
ガンドック号のエンジンが、これまで以上に猛々しい咆哮を上げた。
それは世界の理への宣戦布告。
吹雪の霧が晴れたその先。村の入り口では、教国聖騎士団長ウラジミールの駆る白亜の魔導鎧『パラディン・ホワイト』が、その冷徹な正義の剣を抜こうとしていた。
そしてその背後、影の中から、かつてシエラの父を異端として葬った審問官ヴァレリウスが、獲物を待つ蜘蛛のような笑みを浮かべていた。
――まだ、シエラはその因縁の影が目前に迫っていることを知らない。
シエラはアタッシュケースを抱き直し、モニターの先に広がる白銀の世界を見つめた。
「さあ、始めましょうか、エリュシオン……。父様の愛した真実を、私がここで証明してあげるわ」
ガンドック号のハッチが開き、一腕の赤い鬼、カグツチが雪原へと飛び出した。
復讐と、再生。二つの火花が散る、運命の激突が幕を開ける。




