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第1章:鉄の残滓、あるいは泥の境界線


 肺が焼けるような、異質な空気だった。

 コンクリートと消毒液の匂いが染み付いた静寂の世界から、暴力的に引き剥がされた先。

 そこは、鉄が錆び、血が乾き、そして何かが常に燃え続けているような、咽せるほどの「生」の臭気に満ちていた。

「が、はっ……、あ、げほっ……!」

 カイは泥濘ぬかるみの中に顔を埋めていた。

 全身を襲う、高電圧を流されたような倦怠感。だが、それ以上に彼を戦慄させたのは、右膝の感覚だった。

 痛い。けれど、この一年間感じていた、あの冷たく重い沈黙ではない。神経が、筋肉が、まるで見知らぬ熱源に無理やり繋ぎ直されたような、痺れるような拍動。

(ここは……どこだ……!? 澪は……部屋はどうなった……!)

 顔を上げようとした瞬間、鼓膜を激しい振動が叩いた。

 ――ズゥゥゥゥン。

 地響きと共に、泥が跳ね、視界に巨大な「壁」が現れる。

 いや、それは壁ではなかった。

 高さ十メートルはあろうかという、鈍い銀色に輝く鋼鉄の巨躯。アルカディア帝国の魔導鎧ギア『アイアン・グレイ』。

 現代日本の精密機械とは根本的に異なる、禍々しいまでの威圧感。

 剥き出しの油圧シリンダーが、獣の喘ぎのような音を立てて伸縮し、巨大な関節部からは魔力の残滓である紫色の火花が散っている。

「ひぃっ、助け……!」

 泥を這う村人の叫び。

 鋼鉄の巨神は、感情の欠片もない単眼センサーを無機質に発光させると、その巨大な鉄の足をゆっくりと持ち上げた。

 

 影が、カイを覆う。

 逃げなければならない。かつての僕なら、瞬きする間にこの場から消え去っていたはずだ。

 けれど、泥を掴む手は震え、右膝は生まれたての小鹿のように無力に笑っている。

 

 ドゴォォォォン!!

 すぐ側で、家屋だった瓦礫が踏み潰され、爆風がカイの体を引き摺り回した。

 木材が弾ける音、人の悲鳴、そして鉄が軋む不快な高音。

 感覚が、鋭すぎる。

 恐怖のあまり、カイの脳はかつての「閃光」と呼ばれた時の処理能力を呼び戻してしまう。スローモーションに見える死。逃げられない一瞬が、永遠に引き延ばされる地獄。

(ああ、まただ。結局、僕は何もできないまま……こんなところで……)

 諦めが脳を支配しかけた、その時。

 さっき聞いたあの声が、耳の奥で、いや魂の底で再び響いた。

『――不完全な魂。欠落した意思。そして心の奥底に潜む、狂おしい程の渇望』

 心臓が跳ねる。

 同時に、背後の丘から空気を引き裂くような咆哮が届いた。

「――おいおい、帝国アルカディアの正規軍様が、こんな辺境で弱い者苛めか? 景気がいいこったなあ!」

 爆風と共に、一機の武骨な魔導鎧が戦場へ躍り出た。

 それは、帝国の洗練された機体とは対照的な、継ぎ接ぎだらけの重装甲。だが、その動きには泥を噛み、死線を越えてきた傭兵だけが持つ「殺気」が宿っていた。

 ズゥゥゥゥゥン!!

 突進の衝撃。衝突音。

 重装甲の機体が帝国の『アイアン・グレイ』に肩を入れ、その巨体を強引に押し戻す。

 その隙に、重装甲のハッチが勢いよく開き、一人の男が身を乗り出した。

「おい、そこの坊主! 死にたくなけりゃ、そこの瓦礫の影に這いつくばってな!」

 それが、カイとバルガスの出会いだった。

 バルガスが駆る『テツカブラ』が、咆哮を上げながら乱舞する。

 周囲の丘からは、味方の傭兵たちが放つ魔導弾の光条が交差し、帝国の進軍を阻む。

 

 カイは、泥の中からそれを見つめていた。

 かつて自分が求めた、あの澄み渡るような「速さ」とは違う。

 それは、泥を啜り、鉄を焦がし、ただひたすらに「今、この瞬間を生き残る」ために最適化された、泥臭くも圧倒的な暴力。

(動け……。動け、僕の足……!)

 カイは無意識に、指が千切れるほどの力で泥を掴んでいた。

 澪の檻の中で腐りかけていた心が、戦場の熱に当てられ、一年ぶりに小さな、けれど消えない火を灯す。

 

 戦いは数分で決した。

 伏兵の狙撃と、バルガスの苛烈な接近戦に、帝国軍の小隊は撤退を選択する。

 重い静寂が戻り始めた戦場。

 バルガスは機体から飛び降りると、オイルと汗にまみれた顔でカイの元へと歩み寄った。

「……見ねえ顔だな。服も、そのツラも……。どこのお坊ちゃんだ?」

 カイは答えることができなかった。

 ただ、バルガスの差し出した、大きく、節くれだった、真っ黒な手を見つめる。

 澪の白く清潔な、支配の手とは真逆の、汚く、けれど確かに「明日」を掴み取ろうとする手。

「あ…ああぐぅ」

声を振り絞ろうとするが言葉にならない。

「何とか生きてるようだな……立てるか? 立てねえなら、俺のギアの肩にでも乗せてってやる。……この世界じゃ、立ち止まってる奴から死んでいくからな」

カイは何かにすがるようにその手をしっかりと掴む。

「ハハハ!見た目より気概はあるようだな坊主」

 バルガスは豪快に笑い、カイを強引に引き起こした。

 右膝に、今まで味わったことのない鋭い痛みが走る。

 だが、その痛みこそが、自分が今、この狂った世界で「生きている」ことの証左のように感じられた。

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