第9章:黎明の波紋《ウェイク・アップ》、あるいは静かなる狩人
バベルの夜明けは、浄化されることのない汚泥のような灰色から始まる。
空を覆う巨大な排気ダクトから降り注ぐ煤が、寝静まった街を薄汚れた毛布のように覆い隠していく。移動要塞ガンドック号の船体もまた、その灰色に染まりながら、重い眠りから覚めようとしていた。
調理場では、いつものように古い魔導コンロが唸りを上げ、安っぽいコーヒーの苦い香りが立ち込めている。
「……おい、ロキ。あのアホ面をした助手はどうした?」
バルガスが、寝癖のついた頭を乱暴に掻きながら、まだ夢の残滓が残る足取りで食堂に現れた。
いつもなら、誰よりも早くテツカブラの脚部に潜り込み、金属の悲鳴に耳を澄ませているはずの「一番弟子」の姿が、どこにもない。
「……それがさ、部屋にもいねえんだ。松葉杖も、枕元に残したままで」
ロキは、手にしたスパナを所在なげに弄りながら、窓の外を見つめていた。その表情には、朝の気怠さよりも、隠しきれない焦燥が混ざっている。
「あいつ、昨日の立ち回りで調子に乗って、夜の街へ遊びにでも行ったんじゃねえだろうな。……あの不自由な足で、どこまで行けるってんだよ」
ロキはわざと悪態をついたが、その瞳は、バベルの複雑に入り組んだ路地裏へと注がれていた。昨日、ゼノスを退けたあの誇らしい背中。それが、そのままどこか遠くへ消えてしまったのではないかという、漠然とした恐怖が彼の胸を突く。
「――ふん。あんな足で遊び歩けるわけないでしょ」
ブリッジから降りてきたシエラが、気怠げに銀髪を掻き上げながら、冷めた視線を投げかけた。彼女の手には、厳重に封印された『石版』を収めたケースがある。
「……昨夜から、バベルの地下が少しうるさいわ。工事の振動か、あるいは古くなった地盤の崩落か……。おかげでこの『お宝』も、一晩中機嫌が悪かったみたい」
シエラは、アタッシュケースの中で微かに震動を続ける石版を見下ろした。彼女にとって、それは「帝国の利権」という厄介な荷物であり、それ以上の意味など持たないはずだった。地下から響く地響きが、何かの産声であることなど、夢にも思わずに。
一方、ガンドック号から数マイル離れた、帝国の前線駐屯地。
ゼノスは、磨き上げられた純白の軍服を纏い、鏡に映る己の瞳を見据えていた。
「……報告を」
「はっ。バルガスの傭兵団周辺、及びバベル下層第32区画。依然として特筆すべき魔力反応は検知されません。ただし……」
副官が言葉を濁す。
「……微弱な低周波の振動が継続しております。魔力を用いた駆動音ではなく、まるで、巨大な鉄の塊がただ摩擦しているような、原始的な音です」
ゼノスは、窓の外に広がる薄暗いバベルの街を見下ろし、冷淡に口角を上げた。
「原始的、か。……あの街は、捨てられた鉄の墓場だ。巨大な死骸が自重で崩れているだけに過ぎん。……脱走兵どもが、ゴミ溜めで何をしようと勝手だが、我々の目的はあくまで『石版』の回収。……石版が示す《ホムラ》の起動場所さえ特定できれば、この街ごと灰にしても構わん」
ゼノスにとって、カイは「少しばかり剣理を知る、生意気な不具者の小僧」に過ぎなかった。そのガキが、今この瞬間、自分たちが追い求めている「力」の本質に、指をかけていることなど、想像の範疇になかった。
異様な音にガンドック号の周囲にいた傭兵たちが、一斉に顔を上げた。
ギギィ……ッ、ガシュゥゥン……。
バベルの底から立ち昇る霧を切り裂いて、それは現れた。
右腕を根元から欠き、全身が錆とオイル、そして泥に塗れた、醜い「赤いガラクタ」。
装甲はあちこちが剥がれ落ち、内部のフレームや古い真空管が、まるで剥き出しの臓物のように露出している。近代の機体が持つ、洗練された魔導エンジンの高鳴りなどどこにもない。ただ、重い鉄が擦れ合い、悲鳴を上げるような無骨な足音。
「……おまっ、カイ!?」
ロキが、船のハッチから身を乗り出して叫んだ。
「なんだよその、粗大ゴミは!! 動いてるのが奇跡じゃねえか!!」
機体の胸部ハッチが、プシューッという蒸気の音と共に展開する。中から現れたのは、顔中を煤で真っ黒にし、右足を引きずりながらも、どこか憑き物が落ちたような清々しい表情をしたカイだった。
「……あ、あはは。……みんな、おはよ。……心配、かけたかな」
カイの声は掠れていたが、その瞳には、ガンドックに来た当初の怯えは微塵もなかった。
「おい坊主……」
バルガスが呆れたように鼻を鳴らし、その赤いガラクタを見上げた。
「テツカブラの整備も終わってねえのに、またそんな手の焼けるゴミを拾ってきやがって。……そんなボロ、うちのドックには入れるスペースもねえぞ」
「……ゴミじゃないよ、バルガスさん」
カイは、リトの装甲を愛おしそうになぞった。
「この子は……この子も、僕と一緒に、ここから歩きたいって言ったんだ」
「馬鹿ね」
シエラが、腕を組んだまま冷ややかに鼻で笑った。
「そんな一歩歩くたびに壊れそうな鉄屑、実戦じゃデッドウェイトになるだけよ。……捨ててきなさい、そんなもの」
シエラの冷たい言葉。ロキの困惑。バルガスの呆れ。
けれど、カイは何も言い返さなかった。
彼の内側では今、リトの意識が、温かな振動となって伝わってきていた。
(……ふふ、ひどい言われようね、カイ)
(……ごめんね、リト。でも、僕にはわかるんだ。……君の凄さが、まだ誰にも見えていないだけだって)
(いいのよ。……あなたにだけ、聞こえていれば。……わたしの『心音』は)
カイは、リトのコクピットから降り、ロキに預けていた松葉杖を再び手にした。
周囲には、ただの「拾ってきたガラクタ」にしか見えていない。
帝国のエリート騎士であるゼノスですら、視界の隅にも入れていない、無価値なスクラップ。
だが、その沈黙の奥底で。
魔力を一切必要としない、純粋な物理演算の歯車が、一秒に数億回の回転を始めている。
夜明けのバベル。
煤降る街の片隅で、世界を変える「本当の力」が、静かに、そして誰にも気づかれずに牙を研ぎ始めていた。




