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第57章:崩落の時計盤、あるいは紅蓮の機転

神聖アルカディア帝国、帝都中枢『白亜の宮殿』。

 大陸全土の富と英知が集結し、いかなる外敵の侵攻も許さないとされる無敵の要塞。その最奥にある玉座の間では、重苦しい空気が立ち込めていた。

「……西方防衛線の大半が陥落、だと? 我が帝国の誇る黒鉄の防壁が、わずか半日でか」

 玉座に座る初老の皇帝――アルカディア十三世が、信じられないというように報告書を握りつぶした。

 眼下に控える将軍や大臣たちは、皆一様に青ざめ、口を閉ざしている。無敵を誇った帝国の演算予測が、完全に機能不全に陥っているのだ。

「陛下。……事態は極めて深刻です」

 指揮台から歩み出たのは、帝国の頭脳たる紅蓮の天才、カイゼル・フォン・プロシュタットだった。

「教国の軍勢は、個の意思を持たない『一つの巨大な生き物』として動いています。恐怖も躊躇いもない狂信の群れ……これを統率しているのは、教皇などではありません。未知の、そして恐るべき演算能力を持つ『何か』です」

「カイゼルよ。お前の《イフリート》と、帝都の巨大演算回路を直結させても、敵の動きは読めぬというのか」

「……恥を忍んで申し上げます。私の弾き出す最適解の、常に三手先を読まれています」

 カイゼルの苦渋に満ちた言葉に、玉座の間がざわめいた。あの冷徹な天才が、自らの限界を認めたのだ。

「だが、帝都にはまだ近衛師団と、最新鋭の防衛システムがある! 今すぐ全軍を――」

 皇帝が立ち上がり、声を張り上げようとした、その刹那だった。

 ――ザシュッ。

 鈍い、肉を裂く音が玉座に響いた。

「…………え?」

 皇帝が、ゆっくりと視線を下へ向ける。

 彼の胸の中心から、黄金の装飾が施された一本の剣の刃が、生々しい血を滴らせて突き出していた。

「へ、陛下ッ!!?」

 カイゼルが驚愕に見開いた碧眼の先。

 玉座の後ろに控えていたはずの、皇帝が最も信頼を置く近衛武官長が、一切の表情を変えることなく、主君の背中から深々と剣を突き立てていたのだ。

「き、貴様ッ……何を血迷って……!」

 別の将軍が剣を抜こうとした瞬間、周囲に控えていた数十人の近衛兵たちが、一糸乱れぬ動きで同時に剣を抜き、将軍や大臣たちの首を次々と刎ね飛ばしていった。

 鮮血が、美しい白亜の床を汚していく。

 悲鳴を上げる間すらない、完璧な同期殺戮シンクロ・キル。

「馬鹿な……帝国の近衛が、反乱だと……!?」

 カイゼルは咄嗟に腰の護身用魔導銃を抜き、近衛武官長へ向けて発砲した。

 だが、武官長は皇帝の死体をただの「盾」として使い、いとも容易く銃弾を防ぐと、焦点の合わない瞳をカイゼルへ向けた。

 その瞳の奥には、脳髄を焼き切るような『極彩色の光』が明滅していた。

「……ッ!! 西方で報告された、未知のノイズ……まさか、帝都の中枢にまで『糸』を張り巡らせていたというのか!!」

 カイゼルは即座に理解した。

 これは反乱ではない。ハッキングだ。帝国の誇る「完璧な時計盤」は、その精密さゆえに、たった一箇所の中枢の部品(近衛)を狂わされただけで、完全に自己崩壊を起こしたのだ。

 ビーーーーッ!! ビーーーーッ!!

 宮殿内に、けたたましい警報音が鳴り響く。

 窓の外、帝都の街並みから、次々と巨大な火柱が上がり始めた。

 帝都守備隊の半数が、突如として操り人形となり、昨日まで酒を酌み交わしていた同僚たちへ向けて魔導砲の引き金を引いているのだ。防壁など何の意味もない。敵は、最初から内側にいた。

「……帝都は、落ちる」

 カイゼルは、瞬時にそう計算を弾き出した。陥落率、一〇〇パーセント。

 ならば、帝国軍人として、否、帝国の未来を託された天才として、今成すべき『最適解』は何か。

(……皇族の血だ。皇帝陛下が崩御された今、唯一の正統な後継者をこの地獄から逃がさなければ、帝国は完全に滅びる!)

 カイゼルは、玉座の間へと迫り来る極彩色の近衛兵たちに牽制の射撃を放つと、ステンドグラスの窓を蹴り破り、宮殿の中庭へと身を投げた。

「来い、《イフリート・カスタム》!!」

 カイゼルの呼び声に応え、中庭の地下格納庫から、紅蓮の装甲に身を包んだ指揮官用重魔導鎧が、炎を吹き上げながら飛び出してきた。

 空中でコックピットに飛び乗ったカイゼルは、機体の魔導回路を最大出力で起動させる。

「演算リソースの九割を、帝都からの『脱出ルート』の構築へ回せ! 目的地は、白亜の塔――フィオナ殿下の私室だ!」

 紅蓮の機体が、炎上する宮殿の壁面を強引に蹴り上がり、最も高い尖塔へと向けて飛翔する。

 ◇

 その頃、尖塔の最上階。

 皇帝の末娘であるフィオナ皇女は、バルコニーから、火の海と化していく帝都の惨状を信じられない思いで見下ろしていた。

「嘘……。アルカディアが、燃えている……?」

 常に冷たく、時計の歯車のように正確だった美しい街が、狂気に呑まれ、悲鳴と爆音に包まれている。

 部屋の外からは、扉をぶち破ろうとする近衛兵たちの鈍い剣の音が響いていた。彼らは、フィオナの命を奪うためにやって来たのだ。

「お父様……。ユーゴー様……」

 フィオナが胸元で震える手を握りしめ、目を閉じた、その時だった。

 ズガァァァンッ!!

 バルコニーの分厚い防弾ガラスが外側から粉々に砕け散り、紅蓮の巨大な手が、フィオナの細い身体を優しく、だが強引に掴み上げた。

「きゃあッ!?」

『無礼をお許しください、殿下!』

 外部スピーカーから響いたのは、切羽詰まったカイゼルの声だった。

『皇帝陛下は崩御されました! 帝都はすでに、未知の敵のハッキングによって掌握されています!』

「お父様が……そんな……!」

 フィオナの目から大粒の涙が溢れるが、カイゼルに感傷に浸る時間は一秒たりともなかった。

『泣くのは後です! 貴女は帝国の最後の希望だ。私が必ず、この地獄から貴女を連れ出す!』

 イフリート・カスタムは、フィオナを胸部の装甲の隙間に庇うように抱え込むと、尖塔から燃え盛る帝都の市街地へと一気に飛び降りた。

 だが、着地した彼らを待っていたのは、帝都の大通りを完全に封鎖するように展開した、数百騎の『帝都守備隊』の魔導鎧だった。

 そのすべての機体のカメラアイが、不気味な極彩色に点滅し、逃亡者である紅蓮の機体へと一斉に砲口を向けている。

『……予測ルートA、封鎖。予測ルートB、封鎖。……バカな。私が脱出行動に移るより先に、すべての包囲網を完了させているだと!?』

 コックピットの中で、カイゼルが滝のような冷や汗を流す。

 盤面を操る見えない敵は、帝国の最高頭脳であるカイゼルの思考すらも、完全に読み切っていたのだ。

 絶対的な論理が崩壊した炎の時計盤の中で。

 紅蓮の天才の、絶望的な逃避行が幕を開けた。

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