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幕間:極彩色の箱庭《テラリウム》、あるいは愛という名の特異点

幼い頃から、世界はひどく色褪せて見えた。

 大人が何日も頭を抱える難解な数式は、私にとってはただの簡単なパズル。人々が何年もかけて習得する芸術も、スポーツの技術も、一度見ればその構造ロジックが完全に理解できた。

 私にとって、この世界は「すでに解き終わった、退屈なゲーム」だった。

 他人はすべて、予測通りに動くつまらない機械。明日何が起きるか、誰がどんな愚かな失敗をするか、すべてが視える。

 生きている実感など、どこにもなかった。息を吸うことすら億劫おっくうな、灰色の毎日。

 ――あの子が、生まれるまでは。

 弟のカイが生まれた日。私の透明だった世界に、初めて「色」がついた。

 小さくて、柔らかくて、私の指をぎゅっと握り返してきた温かな命。

 私がどんなに計算しても、この無垢な生き物が次にどんな顔で笑い、どんな声で泣くのか、完全には予測できなかった。

 それは、天才である私に与えられた、初めての「未知」。そして、絶対的な「所有物」。

 ああ、なんて可愛いの。なんて愛おしいの。

 私の可愛いカイ。私の、たった一つの宝物。

 けれど、カイが成長するにつれ、私の完璧な箱庭テラリウムに、不快なノイズが混じるようになった。

 剣道。

 あの子は、あんな野蛮な棒振りに夢中になり、黒城勇吾くろきゆうごという鈍重な凡人を「親友」などと呼んで、泥臭い汗を流すようになった。

 私は許せなかった。

 だから、カイが何千時間もかけて到達した「剣理」を、私は欠伸あくびをしながらたった数分でトレースし、あの子を打ち負かしてみせた。

『ほら、カイ。努力なんて無駄よ。お姉ちゃんのそばにいれば、何も痛い思いなんてしなくていいの』

 そうやって、絶望して私の腕の中に帰ってくるのを待っていた。

 なのに、カイは折れなかった。

 私の計算を超えた、異次元の「速さ」を求め始めたのだ。

 コンマ数秒の世界へ、私の手の届かない場所へ、あの子が飛んでいってしまう。

 初めてだった。私の心臓が、得体の知れない「恐怖」で早鐘を打ったのは。

 このままでは、カイは私の箱庭から羽ばたいてしまう。どうすればいい? どうやってあの子の羽をげばいい?

 そんな私の焦燥を、神様は――あるいは悪魔は、最高の形で解決してくれた。

 全日本中学剣道選手権、決勝。

 極限まで研ぎ澄ませたカイの「速さ」が、あの子自身の脆い骨格を食い破った瞬間。

 ――パキィィィン。

 静まり返った武道館に響き渡った、氷が砕けるような、あの美しい音。

 他人が悲鳴を上げ、勇吾という愚か者が絶望に顔を歪める中、私だけは、最上段の観客席で歓喜に震えていた。

 ああ、なんて綺麗な音。なんて完璧な結末。

 神童は死んだ。翼は折れた。

 これでカイは、一生私のものだ。

 それからの一年間は、私にとって甘く、最高に幸せな時間だった。

 歩けなくなった足。夢を絶たれ、虚無に沈んだ瞳。

 暗い部屋に閉じこもり、私が運ぶ食事を口にするだけの、従順で壊れたお人形。

 毎日、あの美しい傷跡を撫でるたびに、私の心は至福に満たされた。

 外の世界なんてどうでもいい。カイが絶望していればいるほど、あの子の瞳には私しか映らなくなるのだから。

 永遠に続くはずだった、完璧な箱庭。

 それが崩壊したのは、深夜の出来事だった。

 カイの部屋から溢れ出した、あの深紅のノイズ。空間が悲鳴を上げ、物理法則が捻じ曲がる異常な現象。

『――カイ!? 行かせない。私の計算シナリオにないことは、許さないわ!!』

 私が手を伸ばした瞬間、空間の裂け目は非情にも私のカイを飲み込み、跡形もなく消え去った。

 残されたのは、あの子の温もりが消えた、冷たい空室だけ。

「…………あ、ああ、ああああああああああああッ!!」

 私の世界が、再び灰色に染まった。

 いや、灰色どころではない。はらわたを食い破られるような喪失感と、私の所有物を奪い去った「未知の世界」への、どす黒い憎悪。

 許さない。絶対に許さない。

 それからの私は、人間の限界を捨てた。

 寝ることも、食べることも忘れ、あの日カイの部屋に残された微弱な「次元の歪み」の痕跡を、私の全頭脳を懸けて解析した。

 現代科学では百年かかっても解明できない超弦理論の先。異世界への扉の数式を、私は自らの脳細胞を焼き切りながら、たった数ヶ月で書き上げた。

「……見つけたわ。この座標。この、忌々しいエネルギーの波長」

 私は、自らの命を動力源バッテリーにして、次元の壁をこじ開ける術式を起動した。

 肉体が引き裂かれるような苦痛。魂が素粒子レベルで分解される恐怖。

 だが、そんなものは「カイがいない世界」を生きる苦痛に比べれば、そよ風に等しかった。

 空間が割れ、極彩色の光が私を包み込む。

「待っていてね、カイ」

 血の涙を流しながら、私は狂おしく微笑んだ。

「神様があなたを奪ったというなら、私がその神様を殺して、新しい箱庭を創ってあげる。……あなたをそそのかした泥棒たちを皆殺しにして、もう二度と、絶対に逃げられないように……私だけの、可愛いお人形に戻してあげるから」

 かくして、一人の天才少女は「極彩色の厄災」へと変貌した。

 彼女の魂が、魔導と物理の交錯する異世界――聖エリュシオン教国の中枢へ、悪意の種として受肉する直前のことである。

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