第8章:魂の調律《シンクロナイズ》、あるいは共鳴する孤独
そこは、重力すら歪んでいるかのような静寂の底だった。
カイの目の前にあるのは、かつて「神」の一角を担ったとされる超古代機、カグツチ。
だが、今のその姿に神々しさなど微塵もなかった。
赤い装甲は錆に蝕まれ、右腕は無惨に千切れ、腹部には何者かが強引に魔力を流し込もうとした「焼き焦げた痕」が生々しく残っている。機体からは、ドロリとした古いオイルが、傷口から流れる血のように垂れていた。
カイは、松葉杖を投げ捨てた。
自らの右足の痛みなど、もはや意識の外だった。彼は這いずるようにして、その鉄の巨軀へと歩み寄った。
「……ひどい……」
手が触れる。
冷たい。震えるほどに。
その瞬間、カイの脳内に、無数の針で刺されるような衝撃が走った。
『――侵入。……拒絶。……全回路、過負荷……!』
機体内部の真空管が一斉に唸りを上げる。それは不気味な赤色に明滅し、カイを弾き飛ばそうとする暴威の波動。
だが、カイは手を離さなかった。
「逃げない。……僕は、君を傷つけに来たんじゃない!」
叫んだ。
魔力を持たないカイの身体を、機体から漏れ出す高電圧の放電が焼く。
だが、その激痛の中で、カイの《神童の眼》は視ていた。
怒り狂う回路の奥底で、たった一箇所だけ、泣きじゃくる子供のように震えている「心臓」の光を。
(……きて……、こないで……。また、わたしを……よごすの?……あつい、ま力が、あつい……!)
頭の中に響くのは、少女の悲鳴。
カイは、自分の指先から、ありったけの「静寂」を流し込んだ。
魔力を持たない、ただの物理的な「熱」。
「魔力なんて、持ってないよ。……僕は、君と同じだ。……ここが、壊れてるんだ」
カイは自分の右膝を叩いた。
その瞬間、機体の暴走が、ふっと止まった。
赤い発光が、穏やかな橙色へと変わる。
胸部装甲が、ため息をつくようにゆっくりと左右に展開した。
そこには、近代の機体にあるような操縦席さえも剥き出しのフレームが残るのみで、無数の「銀色の糸」が血管のように垂れ下がっていた。
(……あなた……。その、あし……)
リトの声が、今度ははっきりと聞こえた。
「一条カイ。……かつて、誰よりも速くなろうとして、……世界から、足を奪われた男だ」
カイは腕の力だけで、カグツチの心臓部へと身体を滑り込ませた。
座席に触れた瞬間、垂れ下がっていた銀色のフィラメントが、生き物のようにカイの背中、腕、そして折れた右膝へと絡みついた。
『――接続。……神経バイパス、完全同期。マナ・バイアス、ゼロを確認。……適合率、測定不能』
「あ、が……ああああぁぁぁぁっ!!」
カイは絶叫した。
痛覚が共有される。
カグツチの右腕がない空虚な痛みが、自分の腕がもぎ取られたような衝撃となって襲う。
脚部の駆動系が焼き付いた熱が、自分の膝を焼く。
だが、それ以上に――。
カイの脳を埋め尽くしたのは、圧倒的な「自由」だった。
リトの演算回路が、カイの視覚を数千倍に拡張する。
バベルの天井から降りてくる煤の粒子の一つ一つ。
背後の鉄屑の山に隠れている《錆喰らい》の呼吸音。
そして、自分の体内に流れる血液の拍動すら、一つの「物理的なリズム」として制御できる感覚。
(……みえる? ……カイ。これが、わたしの……わたしたちの、せかい)
暗闇の中で、リトが目の前に立っているような錯覚に陥る。
煤けた軍服を纏い、片腕を失った、けれど気高く美しい銀髪の少女。
彼女は、カイの頬にそっと手を添えた。
(だれも、わたしの『あし』になってくれなかった。……みんな、わたしを『力』としてしか見なかった。……でも、あなたは違う。わたしの、痛みが、わかるのね)
「ああ。……君の右足、ジョイントが三ミリ歪んでいるね。……これじゃ、まともに歩けなかったはずだ」
カイは涙を流しながら笑った。
この極限の接続の中でも、彼の整備士としての「眼」は、リトの欠陥を、愛おしい痣のように見つけ出していた。
(ふふ……へんな、ひと。……わたしのなかで、わらっているの、あなたがはじめてよ)
リトの心が、温かな波となってカイの意識に溶けていく。
もはや、どこまでがカイの肉体で、どこからがカグツチの装甲なのか、その境界線が消滅する。
「リト。……僕は、君を直す。……ただの最強の兵器じゃなく、誰よりも自由に、風を切って走れる『身体』に戻す。……約束だ」
(ええ。……わたしも、約束するわ。……あなたの折れた足を、わたしの『力』で補いましょう。……二人でなら、どこまでだって……あの、空の果てまでだって、駆けていける)
ドクン。
二つの孤独な鼓動が、一つに重なった。
その瞬間、カグツチの割れたセンサーが、烈火のような光を放った。
バベルの底に降り積もった千年の沈黙が、ついに破られる。
「――起動、リト!」
『了解、カイ。……さあ、わたしたちを笑った世界を、置き去りにしましょう!』
深淵の底から、物理法則を置き去りにした「真実の咆哮」が響き渡った。
ボロボロの赤い巨人が、ゆっくりと、けれど確かな意志を持って、その一歩を踏み出した。




