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『残光の亡命者《エグザイル》〜膝を壊した天才剣士は、異世界の鋼鉄で再び「最速」を掴む〜』

第一幕:プロローグ『深淵の檻と、あるいは遠い残響』


あの日、僕にあった唯一の価値が無くなった。

 あれから、ちょうど一年。

 僕の世界の秒針は、全日本中学剣道選手権の決勝で、あの「音」と共にへし折れたままだ。

 かつて、僕は「神童」と呼ばれていた。

 同年代に比べて一回りも二回りも華奢な僕が、巨漢の相手を次々と切って捨てる姿は、観客にとって格好のエンターテインメントだったんだろう。恵まれない体格を補うために僕が求めたのは、ただ一つの理――「速さ」。

 相手の筋肉が収縮する予兆を読み、思考が形になる前に踏み込む。コンマ数秒の世界を切り裂くその一撃で、僕は中学二年にして世代の頂点に立ち、いつしか「天才」とまで称されるようになった。

 そんな僕の前に、いつも立ちはだかる大柄な剣士がいた。

 親友であり、唯一の好敵手ライバル――勇吾だ。

 初めて彼を意識したのは、小学六年生の全国大会。不器用だが、岩山のような構えに圧倒的な迫力を宿した少年だった。そうは言っても、その時点での僕と勇吾の実力差は歴然としていて、僕が負ける要素など微塵も無かった。

 だが、剣を交えるたびに、彼は驚異的な速度で僕に肉薄してきた。昨日まで届かなかった僕の背中に、今日は指先が触れる。そのひたむきな熱に当てられるようにして、いつしか僕たちの間には、言葉を超えた友情が芽生えていた。

 真っ直ぐに僕を見据え、上段に竹刀を構える勇吾の瞳は、いつも陽炎のように熱く、眩しかった。

 彼と向かい合っている時だけは、家柄も、背負わされた呪いも、姉の冷たい視線も忘れ、ただ「一条魁」という一人の少年でいられた。

 だが、運命を変えたあの一歩。

 圧倒的なパワーと体格で強烈な一撃を繰り出す勇吾に対抗するため、限界まで研ぎ澄ませた「速さ」という牙が、皮肉にも僕自身の未熟な骨格を食い破った。

 

 会心の一撃を狙い、鋭く踏み込んだ瞬間――。

 右膝は自重と加速の負荷に耐えきれず、パキィィィンと、氷が砕けるような乾いた音を立てて崩壊した。

 這いつくばる僕の視界。

 勝利を目前にして、絶望の深淵に叩き落とされた僕を、勇吾は呆然と見下ろしていた。

 そして、その背後の観客席。誰よりも早く「僕の終わり」を悟り、酷く美しく、そして歓喜を孕んだ微笑を浮かべる姉・澪の姿が、網膜に焼き付いた。


「残念だったな」「怪我さえなければ」という世間の憐れみは、数ヶ月で「アイツもう終わったね」という蔑みに、そしていつしか無関心に変わった。

 高校に進学しても、部活のできない「元・天才」に居場所なんてなかった。

 かつては世界がスローモーションに見えるほどの鋭敏な感覚を持っていた僕が、今は一歩歩くのにも松葉杖に頼り、ノロノロとしか動けない。

 「速さ」を失った僕の毎日は、泥水の中を這い回るような、耐え難い鈍重な地獄だった。

 そんな僕を、家という名の檻で飼い慣らしたのが、姉だった。

 一条澪。

 彼女は、あらゆる分野において「天に愛された」怪物だった。

 学問、芸術、そして僕が人生を捧げていた剣道ですら、彼女は軽々と、そして無機質に「超えて」いた。

 僕が血を吐くような努力でようやく辿り着いた「境地」を、彼女は欠伸をしながら、ただの一瞥で理解し、コピーし、そしてさらに高精度にトレースしてみせた。

「カイ、その足捌き……重心が左に0.5センチずれてるわよ。そう、そこ。……ほら、これでもう私は打たれないわ」

 僕が必死に握っていた竹刀は、彼女にとっては単なる「棒切れ」であり、僕の積み上げた時間は、彼女の数分に等しかった。

 僕が膝を壊したとき、彼女が微笑んだ本当の理由を、僕は知っている。

 

(――ああ、やっとゴミを捨ててくれたのね。これであなたは、不必要な『剣』を捨てて、私のものになれる)

 彼女の献身は、緻密に計算された支配だった。

 一年が経ち、引きこもる僕の部屋に、彼女は毎日食事を運んでくる。

 白磁のように滑らかな指先が、僕の唇をなぞり、折れた右膝の傷跡を愛おしそうに撫でる。

「ふふ、また食べ残してる。ダメじゃない、カイ。……今のあなたの、その絶望に染まった瞳。世界中で私だけが、それを見ていられる。……なんて贅沢な時間かしら」

 ある夜、僕は見てしまった。

 暗い書斎で、僕が折った竹刀の破片を、彼女が自身の喉元に突き立てながら、恍惚と呟く姿を。

「……ずっと、このままでいいのよ。どこへも行かないで。……足なんて、もう治らなくていい。私が、あなたの足になってあげるから……」

 知性と剣才。その頂点に立つ彼女が、僕という「欠陥品」を溺愛する。

 逃げ道はない。彼女は僕の絶望さえも「自分の計算シナリオ通り」だと、その冷たい瞳で肯定してくるのだ。

 そんな姉を徐々に心地良く感じるようになった。

それは狂った共依存関係――僕の心がいよいよ腐り落ちようとしていた、その時だ。

 深夜の自室。

 僕はあの日折れた『竹刀の先』を、ただぼんやりと握りしめていた。

 不意に、その破片が心臓の鼓動と同期するように脈動した。

 ドクン、と。鉄の塊が、生き物のように熱を帯びる。

『――不完全な魂。欠落した意思。そして心の奥底に潜む、狂おしい程の渇望』

 脳髄に直接響く、未知の言語。

 次の瞬間、視界が深紅のノイズで塗り潰された。空間が悲鳴を上げて歪んでいく。

「――カイ!? 行かせない。私の計算シナリオにないことは、許さないわ!!」

 激しく開いたドア。

 天才として全てを支配してきた彼女が、初めて見せた「予定調和の崩壊」への怯え。

 けれど、深紅のノイズは非情にも僕を飲み込み、彼女の手をすり抜けた。

 最後に見たのは、何もなくなった空間で、生まれて初めて「自分の意志」で逃げ出した僕の残光を、狂おしいまでの執着を込めて見つめる、澪の瞳だった。

 そして。

 僕は、泥と鉄、血とオイルの臭いが混じり合う、あの戦災の村へと放り出された。

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