第九十二話『不協和音の終焉、重なり合う鼓動』
「あはははっ! ここ、前よりずっとボロボロで素敵! 壊れたおもちゃ箱みたい!」
崩落した賢者の塔の地下通路に、リリィの無邪気で残忍な高笑いが反響した。 彼女は愛用のウサギのぬいぐるみを抱きしめ、スキップするように激しく瓦礫を飛び越えてくる。その後ろからは、黒律によって強制的に死後も動かされている「黒犬」たちが、喉を鳴らしながら影から這い出してきた。
「リリィ……! なぜ、ここに……!」
リオスが『星喰の剣』を構え、前に出る。まだ身体は重いが、胸の奥にある恩人から託された「種火」が、驚くほど静かに脈動していた。
「グラハム様に言われたんだぁ。『ネズミたちが壊れたから、始まりの箱に逃げ帰るはずだよ』って。……あはっ、当たり! 盟主様にボコボコにされて、泣きながら戻ってきたんでしょ?」
リリィが首を傾げ、三日月のような笑みを浮かべる。空間の「音」を読み取るグラハムの黒律が、緊急転送の座標を読み解き、彼女をこの場所へと先回りさせていたのだ。彼女の瞳が、リオスの右腕に張り付く黒い結晶を捉えた。
「その腕、すっごく美味しそう! 盟主様が言ってた『エラー』の塊でしょ? それ、リリィにちょうだいよ。もっと面白く『調律』してあげるから!」
リリィが指をパチンと鳴らす。 瞬間、リオスの周囲の重力が急激に増大し、足元の石畳がクモの巣状にひび割れた。以前の戦いよりも遥かに鋭利に研ぎ澄まされた、事象をねじ切るような黒律。
「……ぐ、ぅ……ッ!」
「リオス!」
リーナが叫び、心珠を掲げようとする。だが、リリィの放つ圧力は、特定の制御点を持たず、空間全体を不規則に圧壊させる異常な波形を描いていた。
「無駄だよ、リーナ。今のリリィは、グラハム様に最高の『調律』をしてもらったんだから。……エルフの理屈なんて、全部消しちゃえ!」
重力の檻がリオスを押し潰そうとする。リオスの膝が屈み、右腕の結晶が苦痛に呼応して赤黒いスパークを散らした。
(ダメだ、また『飢え』に飲み込まれる……!)
恐怖と痛みがリオスの思考を支配しそうになったその時、彼の脳裏に、アルキデウスが最後に遺した温かな風が吹き抜けた。
『迷いながら、それでも繋いだ手。……それこそが、不完全な希望だ。』
(……そうだ。俺たちは、部品なんかじゃない。)
リオスは、リーナとゼノスの方を振り返った。 二人もまた、リリィの圧倒的な圧力に抗いながら、リオスを助けようと必死に手を伸ばしている。その姿は、かつて庭師が設計した「完璧な同期」とは程遠い、泥臭く、必死な人間の足掻きだった。
「……ゼノス、リーナ。合わせてくれ……いや、俺たちが『合わせる』んだ!」
リオスの呼びかけに、二人が目を見開く。 リーナは、かつてのように大樹のシステムに自分を嵌め込むのをやめた。代わりに、幼い頃から知っているリオスの呼吸を、ゼノスの歩幅を、その心の機微を感じ取ることに全神経を集中させた。
「……分かったわ。リオス、ゼノス。私たちの『音』を……!」
リーナが心珠を抱きしめ、歌ではなく、祈るように囁いた。 碧い光が、それまでの規律正しい幾何学模様を捨て、まるでウィスパーウッドの草原を渡る風のように、不規則で柔らかな揺らぎを帯び始めた。
「……フン、不器用な和音だが……嫌いじゃない」
ゼノスが短剣を逆手に構え、自身の影を「境界」としてではなく、リオスの受ける重圧を分散させる「クッション」として広げた。
三人の律動が、不揃いなまま、しかし一つの「意志」の元に重なり合った。
ピキィィィィィンッ!
リリィの重力空間が、内側から押し返されるように霧散した。
「え……? リリィの黒律が、消された……? なんで? どこにも制御の核がないのに!」
リリィが驚愕に目を見開く。 本来、律動の術式には必ず制御の起点が存在する。グラハムが施したリリィの調律は、その起点を千々に分散させ、捉えどころをなくすことで無敵を誇っていた。
だが今の三人の調和は、それすらも超越していた。 三人が互いを想うことで生まれる「生命のゆらぎ」は、グラハムの冷徹な計算式にない、不確定な周波数を生み出し続けていたのだ。 規則正しく分散されたリリィの闇は、絶え間なく変化し続ける三人の共鳴に、位相を合わせることも、打ち消すこともできなかった。
「計算できない……? リリィの音が、追いつけないの……!?」
「リリィ。……遊びは終わりだ」
リオスが地を蹴った。 『星喰の剣』が放つのは、以前のような禍々しい闇ではない。 アルキデウスから託された「ウィスパーウッドの風」を纏い、澄み渡るような青白色の輝きを帯びた刃。
「喰らうんじゃない……繋ぐんだ。俺たちの、未来をッ!!」
渾身の一閃が、リリィの展開していた絶対防御の障壁を、紙細工のように切り裂いた。
「う、嘘……っ、あぁぁぁぁッ!!」
リリィの叫びと共に、彼女の周囲に溜まっていた「虚ろ」の澱みが浄化され、爆発的な光の飛礫となって散らばった。 衝撃に吹き飛ばされたリリィは、壁に激突し、手に持っていたぬいぐるみを落とした。
「……あ、あは……あはは……。変なの……。今の、全然楽しくないのに……なんで、こんなに胸がうるさいの……?」
リリィは震える手で血を拭うと、不気味に笑いながら、落ちたぬいぐるみを拾い上げた。その瞳には、今までのような余裕はなく、代わりに取り憑かれたような執着が宿っていた。
「……次は、もっとすごいおもちゃを持ってきてあげる。……絶対に、壊してあげるんだからね、リオス……!」
リリィは夜の闇に溶けるように、姿を消した。
静寂が戻った塔の地下。 リオスは、膝をつくことなく、自身の剣を見つめていた。右腕の結晶はまだそこにある。だが、それはもう、彼を蝕むだけの呪いではなかった。
「……できたな。俺たちの、調和」
リオスが微笑むと、リーナが駆け寄り、その手を強く握りしめた。
「ええ。……完璧じゃなくても、いい。これが、私たちの答えよ」
始まりの場所で、彼らは真の意味で「一つ」になった。 しかし、その喜びを噛み締める暇もなく、北の空から不吉な震動が届いた。
ゼフィアンが、北の果て、禁忌の眠る天蓋山脈に到達したのだ。
卓上の語り部でございます。
第九十二話『不協和音の終焉、重なり合う鼓動』をお届けいたしました。
最悪の幹部リリィの襲撃。グラハムの黒律によって「中心」を失い、捉えどころをなくしていた闇に対し、三人は「生命のゆらぎ」という不確定要素で立ち向かいました。計算され尽くした分散を、計算不可能な共鳴が上書きする。それは、システムの一部に過ぎない存在に対し、真に「人間」としての絆が勝利した瞬間でした。
リリィを退け、新たな絆の形を掴んだ三人。しかし、宿敵ゼフィアンはいよいよ北の果て、禁忌の力が渦巻く天蓋山脈へと到達しました。彼がそこで手にしようとする力は、世界にどのような変貌をもたらすのか。
次回、再起した一行による追撃戦が始まります。刻一刻と歪んでいく世界の律動。その源流へと向かう彼らの前に、いったい何が待ち受けているのか。 物語はいよいよ、真のクライマックスへ。どうぞご期待ください。
P.S. 本作の世界観設定や用語解説などは、Webサイト「Table Talker's Log」にて随時更新しております。 https://tabletalker.info/category/avelia/
卓上の語り部より、敬具。




