第八十四話『旅立ちの風、影が導く先』
『静寂の間』の冷たい空気の中で、リオスの呼吸だけが微かに、しかし規則正しく刻まれていた。 彼の右半身を覆う黒い結晶は、以前のような脈動を止め、今は深い眠りについているかのようだった。
「……準備は整いました」
エリアスが、自身の荷物と、里から提供された特殊な錬金薬を鞄に詰め込み、立ち上がった。その顔には、学者としての知的好奇心よりも、仲間を思う真剣な色が浮かんでいる。
「始原の森……一度訪れた場所とはいえ、今度はその『最深部』。文字通り、世界の心臓部へ向かうことになります。リーナさん、準備はいいですか?」
リーナはリオスの手を一度強く握りしめ、静かに立ち上がった。彼女の胸元では、アルキデウスから託された『律動の心珠』が、決意を映すように碧く澄んだ光を放っている。
「ええ。リオスを……いえ、世界を元に戻すために。私にできること、全部やりたいの」
里の外縁、断崖に突き出した見晴らし台では、ゼノスが独り、山脈を渡る風を受けていた。 腰にはアルキデウスから託された『影纏いの短剣』。 父ゼフィアンが一族を裏切り、自分が戦い続けてきた敵の源流を作ったという事実は、今も彼の胸に重く沈んでいる。
「……風が、お前の迷いを運んできているぞ」
背後からの声に、ゼノスは振り向かずに低く応えた。
「風の読み方は、お前に教わるまでもないさ」
現れたのはヴァラだった。彼女は二本の曲刀を背に負い、旅装を整えている。
「口ではそう言うが、お前の刃はあの試練の時、確かに揺れていた。裏切り者の血を引いているという事実が、お前を縛っているのか」
ゼノスはゆっくりとヴァラに向き直った。その瞳は冷徹だが、奥底には揺るぎない理知が宿っている。
「血がどうあれ、俺のやることは変わらない。……婆様が俺をここに導いた意味、それをこの目で見極めるだけだ」
「婆様……セリス様のことか。フン、お前のような不器用な孫を育てるのは、さぞ骨が折れただろうな」
ヴァラの言葉に、ゼノスは少しだけ口角を上げた。二人の間に流れる律動は、互いに反発しながらも、どこかで共鳴し合っている。
「長老の命により、私はお前たちの監視役として同行する。……お前がゼフィアンと同じ道を行くのか、それとも別の風を吹かせるのか。見極めさせてもらうぞ、ゼノス」
「勝手にしろ。だが、足だけは引っ張るなよ。監視役さん」
出発の時、里の長老が一行の前に現れた。
「ゼノスよ。これは、お前の婆様――セリスがいつかお前に渡してほしいと、私に預けていたものだ」
長老が差し出したのは、古びた銀色のペンダントだった。中央には、ゲイル・テトラの紋様と、影を模した小さな黒石が埋め込まれている。
「『血の呪いではなく、魂の導きに従え』。それが姉上の最期の願いだった。この石は、お前の影の律動を増幅させると同時に、精神を汚濁から守る護符となる」
ゼノスは無言でそれを受け取ると、首にかけた。黒石が肌に触れた瞬間、懐かしい温もりが伝わってきた。
一行が里の隠し通路を通り、再び断絶の山脈の荒野へと踏み出そうとした、その時だった。
「……っ!」
リーナが、石造りの担架に横たえられていたリオスを振り返った。 リオスの指先が、僅かに動いたのだ。
「リオス? 起きたの!?」
リーナが駆け寄る。リオスの瞼が震え、ゆっくりと開かれた。 左目は、以前と同じリオスの意志を宿した瞳。だが、黒い結晶に覆われた右目は――吸い込まれるような深淵の闇の中で、星のような青白い燐光を点滅させていた。
「……リ……ナ……?」
その声は、重なり合った二つの声が響いているかのように不自然だった。一つはリオスの声、そしてもう一つは、冷たく、底知れぬ響きを持った「虚無」の残響。
「リオスくん、意識が戻ったのですか!」
エリアスが駆け寄り、診断しようとする。リオスは混乱したように自分の右腕を見つめ、それからリーナを、そしてヴァラを、最後にゼノスを見た。
「……あっちだ……」
リオスは、震える左手で西の方角――始原の森がある方向を指差した。
「あっちで……何かが、呼んでる。俺を……いや、この腕を……」
彼の右目に宿る燐光が、一瞬だけ強く輝いた。
「始原の森の主……聖域の大樹が、反応しているのか……?」
長老が険しい表情で見送る。 救いの『鍵』を継ぐ娘、血の因縁を背負いし『抑制者』、そして災厄の『器』をその身に宿した若者。
「風よ、彼らを導け。それが例え、終焉へと続く道であっても……」
一行は、新たな同行者ヴァラを加え、世界の心臓部――始原の森の最深部へと、その一歩を踏み出した。
卓上の語り部でございます。
第八十四話『旅立ちの風、影が導く先』をお届けいたしました。
隠れ里からの出発。ゼノスは祖母セリスの形見を受け取り、自らの出自と向き合う覚悟を新たにしました。監視役として同行するヴァラとの関係も、単なる敵対から「見極め」の対象へと変化し、二人独特の信頼関係が築かれつつあります。
そして、不気味な覚醒を遂げたリオス。右目に宿った「虚無の残響」は、彼らを始原の森の最深部――大樹へと誘います。そこで彼らを待つのは、古代エルフの最終術式「再誕」を完成させるための『触媒』と、それを手にするための過酷な『試練』。
物語はいよいよ、全ての因縁が交差する聖域へと向かいます。 次回、緑の深淵で彼らを待ち受けるものとは。どうぞご期待ください。
P.S. 本作の世界観設定や用語解説などは、Webサイト「Table Talker's Log」にて随時更新しております。
https://tabletalker.info/category/avelia/
卓上の語り部より、敬具。




