第五十八話『深緑の迷宮と、浮遊する罠』
始原の森の朝は、外の世界とはまるで違っていた。 苔が放つ青白い光が薄れると、代わりに頭上遥か彼方の樹冠から、緑色のフィルターを通したような鈍い光が差し込んでくる。空気は昨晩にも増して湿気を帯び、まとわりつくようだ。
「……酷い湿気だ。耳がカビそうだ」
朝一番、ゼノスが不機嫌そうに鼻を鳴らした。彼の漆黒の髪は湿気で重たげになり、頭頂部にある獣の耳も、水分を含んでペタリと寝てしまっている。
「文句を言っても始まらないさ。行くぞ」
リオスは軽く体をほぐしながら、仲間に声をかけた。昨晩は熟睡できたとは言い難いが、それでも多少の体力は回復している。
「リーナ、調子はどうだ? まだ頭痛がするのか?」
リオスが気遣わしげに尋ねると、リーナは少し顔色が悪いながらも、しっかりと頷いた。
「ええ、ありがとうリオス。まだ少し耳鳴りはするけれど、昨日のような激しい痛みはないわ。感覚を『絞る』コツが、少し分かってきたみたい」
「それは何よりですね。リーナさんの感知能力が使えないとなると、この森での探索は困難を極めますから」
エリアスが地図(といっても、この森に関しては白紙に近いが)とコンパスを確認しながら、安堵の息を漏らした。
一行は再び、薄暗い緑の深淵へと歩みを進めた。
道なき道を進むのは骨が折れた。 地面は複雑に絡み合った巨大な木の根がうねり、まるで波打つ海のようだ。根と根の隙間には、大人がすっぽり落ちるほどの深い穴が開いており、そこから見たこともない巨大なシダ植物や、毒々しい色をしたキノコが群生している。
「素晴らしい……見てください、あれは文献にしか残っていない『発光結晶苔』ですよ。それに、あの巨大な食虫植物は『大口猪籠草』の原種……!」
エリアスは歩きにくさも忘れたように、あちこちの植物に目を輝かせ、時折立ち止まっては熱心に観察している。
「先生、そろそろ学術調査は勘弁してくれ。足場が悪すぎて、気が散る」
先頭を行くゼノスが、振り返らずにぼやいた。
「おや、すみません。つい、知的好奇心が刺激されてしまいまして。……ですが、これほどの古代種がそのままの形で残っているとは、本当に驚きです」
エリアスは恐縮しながらも、手帳に何やら熱心にメモを取っている。
そんなエリアスの様子に苦笑しながら、リオスが足元の太い根を乗り越えようとした時だった。
「……待って」
不意に、リーナが鋭い声で一行を制止した。
「どうした、リーナ?」
「風の……流れが変わったわ。何かが、来る」
彼女の言葉に呼応するように、前方から奇妙なものが漂ってきた。 それは、綿毛のようにも、クラゲのようにも見える、直径数十センチほどの半透明な球体だった。ふわふわと空中を浮遊し、微かに虹色の光を放っている。
「なんだ、あれ? 綺麗だけど……」
リオスが警戒しながら剣の柄に手をかける。 球体は一つや二つではない。数十、数百という数が、まるで川の流れのように、森の奥からこちらへ向かってゆっくりと流れてくる。
「これは……胞子、でしょうか? それにしても大きすぎますが」
エリアスが眼鏡の位置を直し、目を凝らす。
一際大きな球体が、リオスの目の前を横切ろうとした。リオスは何気なく、それを手で払いのけようとした。
「うっ……!?」
指先が球体に触れた瞬間、バチッという静電気のような衝撃が走り、リオスの体がガクンと膝をついた。
「リオス!? 大丈夫か!」
「あ、ああ……。なんだ? 急に体が重く……力が、抜けたような……」
リオスは脂汗を流しながら、何とか立ち上がろうとする。剣を握る手に力が入らない。
その時、リーナが悲鳴のような声を上げた。
「だめ、触らないで! それ、生きてる!」
「生きてる? ただの胞子じゃないのか?」
ゼノスが怪訝そうに尋ねるが、リーナの顔は蒼白だ。
「違う、普通の胞子じゃない……。今、リオスから『律動』が吸い取られたの! その球体の中に、流れ込んで……!」
彼女の視界には、リオスの体から溢れ出た生命の光が、触れた瞬間にあの半透明な球体へと急速に吸い上げられていく様が映っていた。
「律動を、吸い取った……? まさか、そんな植物が……」
エリアスが驚愕に目を見開く。彼の膨大な知識をもってしても、接触しただけで相手の生命力を奪う胞子など、聞いたことがなかった。だが、リーナの感覚は絶対だ。
「接触禁厳です! これは生物からエネルギーを直接奪って成長する、極めて危険な捕食性の胞子のようです。触れれば触れるほど、体力を奪われますよ!」
「チッ、厄介な代物だな。斬っても意味がなさそうだ」
ゼノスが短剣を構えるが、相手は不定形の胞子だ。物理的な攻撃が効くとは思えない。 胞子の群れは、行く手を完全に塞ぐように、密集して漂っている。
「どうする? 引き返すか?」
「駄目よ。後ろからも来てる。……囲まれたわ」
リーナが青ざめた顔で周囲を見渡す。いつの間にか、前後左右、上下の空間までもが、虹色の胞子で埋め尽くされようとしていた。
「くそっ、八方塞がりかよ……!」
リオスが歯噛みする。強敵との戦闘ならまだしも、こんな浮遊物に体力を奪われて全滅など、笑い話にもならない。
その時、リーナが一歩前へ出た。
「……私が、道を見つける」
「リーナ? でも、君はまだ本調子じゃ……」
エリアスが心配そうに言うが、リーナは首を振った。
「大丈夫。感覚を『開く』わ。……この胞子たち、風に乗っているだけじゃない。律動の濃い場所を求めて動いているの。だから、必ず『隙間』があるはず」
リーナは深く息を吸い込み、閉じていた感覚を再び鋭敏にした。 途端に、森中に渦巻く莫大な命の奔流が、騒音となって彼女の頭の中に雪崩れ込んでくる。
「くっ……!」
リーナは苦悶の表情を浮かべ、よろめきそうになるが、懸命に踏みとどまった。彼女の碧い瞳が、カッと見開かれる。
「……見える。風の、流れが」
彼女には見えていた。無秩序に漂っているように見える胞子の群れの中に、川の流れのような「律動の筋」があることを。そして、その流れが弱い場所――安全なルートがあることを。
「みんな、私の後ろについてきて。絶対に、私の指示から逸れないで」
リーナの声には、強い意志が宿っていた。
「右へ三歩……次は、しゃがんで。そのまま、ゆっくり前へ……」
一行は、リーナの言葉に従い、奇妙なダンスを踊るように慎重に進んだ。 目の前をふわふわと漂う死の胞子を、紙一重で避けていく。緊張で喉が渇き、心臓の音がうるさいほどに響く。
どれくらいの時間が経っただろうか。永遠にも思える緊張の時間が過ぎ、ようやく彼らは胞子の群生地帯を抜け出した。
「はぁ、はぁ……ここまで来れば、もう大丈夫……」
緊張の糸が切れたのか、リーナがふらりと倒れそうになる。 リオスが慌てて駆け寄り、彼女の体を支えた。
「ありがとう、リーナ。お前のおかげで助かったよ」
「ええ……。なんとか、慣れてきたみたい。この森の『音』に」
リーナはリオスの腕の中で、疲労困憊ながらも安堵の笑みを浮かべた。
「フン。……大したもんだ。この森じゃ、俺の鼻より、リーナの目の方が頼りになるらしい」
ゼノスが短い言葉で、彼女の功績を称えた。彼なりの精一杯の賛辞だった。
「ええ、本当に。リーナさんがいなければ、我々は今頃、あの胞子の養分になっていたでしょう」
エリアスも、心底ほっとしたように眼鏡を拭った。
彼らは振り返り、今抜けてきた虹色の死の霧を見つめた。 ここには怪物だけでなく、こうした環境そのものが牙を剥いて襲いかかってくる。
改めて、「始原の森」の恐ろしさを骨身に刻みながら、四人は再び、深緑の迷宮の奥へと歩き出した。
卓上の語り部でございます。
第五十八話『深緑の迷宮と、浮遊する罠』をお届けいたしました。
始原の森での本格的な探索が始まりました。 まとわりつくような湿気、足場の悪い根の道、そしてエリアスの知的好奇心を刺激してやまない古代植物の群生。それらすべてが、この森の異質さを物語っています。
今回、一行を襲ったのは牙を持つ獣ではなく、環境そのものでした。 「律動喰らいの胞子」。触れるだけで生命力を奪われる浮遊する罠は、剣や魔法で戦う相手よりもある意味で厄介な存在です。
窮地を救ったのは、導き手であるリーナでした。 前話では森の轟音に苦しんでいた彼女ですが、今回はその鋭敏すぎる感覚を逆手に取り、「律動の流れ」を読むことで安全なルートを見つけ出しました。彼女がこの過酷な環境に適応しつつあることを示す、重要な一幕だったのではないでしょうか。 ゼノスの言葉通り、この森では彼女の「目」が何よりの頼りになりそうです。
死の胞子地帯を抜け、一息ついた四人。しかし、彼らはまだ始原の森の入り口を過ぎたばかりです。 深奥部には、さらなる未知が待ち受けています。
次回もどうぞご期待ください。
P.S. 本作の世界観設定や登場人物の紹介、アヴェリアにある大陸の地図などは、Webサイト「Table Talker's Log」にて公開しております。物語をより深く楽しむための補足情報として、ぜひご活用ください。
https://tabletalker.info/category/avelia/
卓上の語り部より、敬具。




