第五十三話『戦いの余韻、帰還する風』
ニヴェルガンドが灰と化して消えた後、遺跡の中心部には奇妙な静寂が満ちていた。
「……ふぅ、これで少しは落ち着けますね」
エリアスが眼鏡を外し、煤と汗で汚れた顔を拭いながら、深いため息をついた。彼の足元には、空になった錬金薬の瓶がいくつも転がっている。 その隣では、リーナが崩れ落ちた石柱に腰掛け、まだ微かに震える手で、光を失った結晶石を愛おしそうに撫でていた。
「リオス、大丈夫?」
彼女の視線の先には、仰向けに大の字で倒れ込んでいるリオスの姿があった。
「……ああ、生きてる。たぶんな」
リオスは重い瞼を少しだけ開け、ぼんやりと空を見上げた。 うっそうと茂っていた梢の隙間から、黄金色の夕陽が差し込んでいる。肌を刺すような腐臭は消え、代わりに湿った土と、若葉のような青臭い匂いが風に乗って運ばれてきた。
「森が……息を吹き返してる」
リオスが呟くと、リーナが小さく頷いた。 彼らの視界の端で、黒く枯死していた木の幹から、小さな緑の芽が顔を出しているのが見えた。あれほど強力だった腐敗の呪縛は、核が砕かれたことで確実に解け始めていた。
「君の剣が、あの莫大な腐敗の律動を喰らい尽くしてくれたおかげだよ。リオス君、君は本当に……」
エリアスが称賛の言葉を口にしかけて、ふと口をつぐんだ。 リオスが体を起こし、周囲を見回しながら、眉をひそめたからだ。
「なぁ、先生、リーナ。……あいつは?」
その問いに、場の空気が一瞬にして重くなった。
そこにいるべき、もう一人の仲間の姿がない。 獣人族の戦士、ゼノス。
彼は、リオスたちがこの遺跡の中枢に辿り着く前、森猩々(フォレストコング)の群れを引きつけるための囮となり、一人で別行動をとっていたのだ。
「……まだ、戻ってきていません」
エリアスが沈痛な面持ちで首を横に振る。
「あの腐敗の龍が現れた時の衝撃、そして最後の律動の衝突……。森全体が揺れ動くほどの影響がありました。離れていた彼が無事である保証は……」
「馬鹿言うなよ、先生」
リオスは痛む体に鞭打って立ち上がると、ニヤリと笑ってみせた。
「あいつだぞ? 俺たちよりよっぽどタフで、悪運が強い。あんな化け物の騒ぎに巻き込まれてくたばるようなタマじゃないさ」
そう口では言いながらも、リオスの拳は強く握りしめられていた。
(無事でいてくれよ、ゼノス……!)
その時だった。
ガサガサッ……
遺跡の入り口付近、まだ少し煙が残る茂みが大きく揺れた。
「!」
三人が一斉に身構える。まだ敵が残っていたのか? リオスが『星喰の剣』の柄に手をかけた、その瞬間。
「……フン。随分と派手にやったもんだな」
聞き覚えのある、少し嗄れた低い声が響いた。 茂みをかき分けて現れたのは、全身傷だらけで、その漆黒の髪が泥と血で茶色く染まった、大柄な獣人だった。
「ゼノス!」
リーナが弾かれたように立ち上がり、声を上げる。
ゼノスは左腕をだらりと下げ、少し足を引きずりながらも、表情一つ変えずにゆっくりと歩み寄ってきた。その右肩には、彼を襲っていたであろう森猩々の巨大な牙が、戦利品のようにぶら下がっている。
「……おい、リオス。そんな辛気臭い顔をするな。せっかくの勝利が台無しだろう」
「お前こそ! どんだけ待たせりゃ気が済むんだよ、この馬鹿!」
リオスが駆け寄り、ゼノスの無事な方の肩を軽く殴る。その目には、安堵の涙が滲んでいた。
「フン。出迎えの挨拶にしちゃ、手荒すぎるんじゃないか?」
ゼノスは殴られた肩をわざとらしくさすりながらも、その口元には微かな笑みが浮かんでいた。
「……それにしても」
ゼノスの視線が、リオスの腰にある剣に向けられた。今はただの鈍色の剣だが、彼は何かを感じ取ったように目を細めた。
「……どうやら、一皮むけたようだな。あの腐気が消し飛ぶ様、遠目にも見えたぞ」
「ああ。……お前のおかげだ」
リオスが短く答えると、ゼノスは鼻を鳴らし、エリアスとリーナの方へ向き直った。
「先生も、リーナも、五体満足か。……フン、悪くない結果だ」
ぶっきらぼうな物言いだが、その声には微かな安堵が混じっていた。 エリアスは苦笑しながら眼鏡をかけ直し、リーナは涙を拭って大きく頷いた。
四人が再び揃った。 夕陽が、傷だらけの彼らの影を長く伸ばす。
「無駄話は終わりだ」
ゼノスが痛む体をさすりながら、森の出口の方角を顎でしゃくった。
「長居は無用だ。さっさとずらかるぞ。……まともな空気が吸いたいんでな」
「そうね。でもその前に、一つだけやることがあるの」
リーナが静かな声で言い、立ち止まった。 彼女は両手で包み込んでいた、光を失った鈍色の結晶石を見つめている。
「リーナさん? その石は……」
エリアスが問いかけると、リーナはゆっくりと首を横に振った。
「これは、持っていけないわ。この石は、この森の心臓だから。私たちが森を抜けるまで力を借りてしまったら、この森はまた……」
彼女は言葉を濁したが、全員がその意味を理解した。この結晶石こそが、ウィスパーウッドの生命線なのだ。
「じゃあ、どうするんだ? 置いていくのか? せっかく手に入れたのに」
リオスの問いに、リーナは微笑んで頷いた。
「ええ。本来あるべき場所に、返すわ」
リーナは、ニヴェルガンドが消滅した中心点、抉れた大地の前に跪いた。そして、そっと土を掘り、結晶石を埋める。
「ありがとう。ゆっくり休んで」
彼女が祈るように手を合わせ、土をかけた、その瞬間だった。
ドォォォォンッ……!
埋められた場所から、地鳴りのような低い音が響き渡った。 次の瞬間、地面から目も眩むような碧い光の柱が噴き上がった。
「うわっ!?」
リオスたちが腕で顔を覆う。 光の柱は天高く昇り、そして、ある一点の方角に向かって、まるで巨大な矢印のように収束していった。
その光が指し示す先。それは、さらに深く、広大な原生林が広がる西の方角だった。
「これは……律動の奔流? いえ、まるで道標のようだ」
エリアスが目を見開き、光の指す方角を見つめる。
「まさか、この森の核が、その根源たる場所を……我々が目指すべき『聖域の大樹』の場所を指し示しているというのですか?」
リーナがゆっくりと立ち上がり、光の指す方角を見つめた。彼女の瞳にも、同じ碧い光が宿っている。
「ええ。……あっちの方から、とても懐かしくて、強い律動を感じるの。きっと、あそこが……」
「フン。光の羅針盤とは、洒落た真似をしてくれる」
ゼノスが鼻を鳴らし、ニヤリと笑った。
「だが、悪くない。闇雲に歩き回る手間が省けた」
「ああ。これでようやく、次の目的地がはっきりしたな」
リオスも力強く頷き、剣の柄を握りしめた。 彼らの最終目的は、世界の律動を修復するための「儀式」と「触媒」を手に入れること。そのために目指していた「聖域の大樹」への道が、今、明確に示されたのだ。
「行こう。世界の本当の姿を取り戻すために」
リーナの言葉に、三人が頷く。 長く、苦しかったウィスパーウッド大森林での戦いは終わった。しかし、それは彼らの本当の旅の、始まりに過ぎなかった。
彼らの足取りは疲労に満ちていたが、その一歩一歩は、確かな目的に向かって、力強く踏み出された。
卓上の語り部でございます。
第五十三話『戦いの余韻、帰還する風』をお届けいたしました。
長きにわたるウィスパーウッド大森林での激闘が、ついに幕を下ろしました。 腐敗の呪縛は解け、森は少しずつですが息を吹き返し始めています。傷だらけになりながらも、彼らは大きな試練を乗り越えることができました。
そして何より、別行動をとっていた頼れる兄貴分、ゼノスの無事な帰還。彼らしい憎まれ口と共に四人が再び揃った夕暮れのシーンは、彼らの絆の強さを改めて感じさせるものでした。
また、リーナが手に入れた結晶石を「森の心臓」として大地へ還すという選択。それは、力を奪うのではなく、あるべき姿に戻すという、導き手である彼女らしい決断だったと思います。
その決断に応えるように、森の核が最後に示した碧い光の道標。それは、彼らが目指すべき最終目的地――西の果てにある「始原の森」と「聖域の大樹」を指し示す羅針盤となりました。
巨大な迷宮のような森を彷徨い、苦難の末にようやく、最奥にある秘密の部屋への正しいルートが示されたのです。
ウィスパーウッドでの戦いは終わりましたが、世界の律動を修復するための「儀式」と「触媒」を求める旅は、ここからが正念場です。束の間の休息を経て、彼らは未踏の領域へと足を踏み入れます。
次回の更新も、どうぞご期待ください。
P.S. 本作の世界観設定や登場人物の紹介、アヴェリア大陸の地図などは、Webサイト「Table Talker's Log」にて公開しております。物語をより深く楽しむための補足情報として、ぜひご活用ください。
https://tabletalker.info/category/avelia/
卓上の語り部より、敬具。




