第四十九話『屍(しかばね)の龍、根を喰らう影』
「グォォォォォォォォォォ……!!」
その咆哮は、大気を震わせるというよりは、空間そのものを腐食させるような、おぞましい濁流となって周囲に撒き散らされた。 粘液が泡立つ音、無数の骨が軋み合う音、そして何百もの生物の断末魔が混ざり合った、聞く者の精神を直接削り取るような叫び声。
「ひっ……!」
リーナが悲鳴を上げ、耳を塞いでしゃがみ込む。彼女の手の中の結晶石が、龍の放つ瘴気に抗うように必死に輝いているが、その光は風前の灯火のように頼りなかった。
「なんて……なんて禍々しい律動だ! 存在しているだけで、周囲の生命力を根こそぎ奪っていく!」
エリアスが顔面蒼白になりながら叫ぶ。彼自身も、肌を突き刺すような不快な波動に、立っているのがやっとの状態だった。それは、闇の盟約者たちが操る「黒律」ですら生ぬるく感じるほどの、圧倒的に歪んだ力の奔流だった。
腐敗の龍が、ゆっくりとその巨体を動かした。 翼のように広げた粘液の膜が羽ばたくたびに、タールの雨が降り注ぎ、触れた地面や遺跡の石柱がジュワジュワと音を立てて溶けていく。
「来るぞ! 散れッ!」
リオスの指示が飛ぶのと同時だった。 龍がその巨大な顎を開き、真っ黒なブレスを吐き出した。
ドォォォォン!!
炎ではない。それは、高濃度の腐敗液の奔流だった。 直撃を受けた古代遺跡の壁が、飴細工のように崩れ落ち、ドロドロの泥となって流れていく。
「くっ、あぶねぇ!」
間一髪で横に飛びのいたリオスだが、飛沫が足元の草を瞬時に枯死させるのを見て、背筋が凍った。掠っただけでも致命傷になりかねない。
「エリアス、あれは何だ!? ただの魔物じゃないぞ!」
リオスは瓦礫の陰に身を隠しながら、反対側に逃れたエリアスに問いかけた。
エリアスは震える手で眼鏡の位置を直し、絶望的な表情でその巨体を見上げながら答えた。
「まるで、アヴェリアの最古の神話にある龍のようですね……」
「神話の龍だって!? なんでそんなものがここに!」
「本物であるはずがありません。ですが、その在り方は、世界樹の根を齧り、死肉を喰らうという破滅の象徴……『ニヴェルガンド』そのものです。この怪物を呼ぶには、相応しい名でしょう……」
ニヴェルガンド。その名前に呼応するように、龍の体表に埋め込まれた無数の骸骨が、カラカラと笑うように震えた。
「グゥルゥゥァァ……!」
龍の視線が、ギョロリと動いた。 その濁った眼球が捉えたのは、瓦礫の陰で震えているリーナと、彼女が持つ碧色の結晶石だった。この腐りきった世界で唯一、清浄な輝きを放つその光が、怪物にとっては最も目障りな異物なのだ。
「しまっ……リーナが狙われてる!」
龍が再び顎を開き、腐敗のブレスをチャージし始める。 リーナは瘴気に当てられ、動けない。
「させるかよぉぉッ!」
リオスは隠れていた場所から飛び出し、龍の側面に回り込んだ。 真正面からブレスを受けるのは自殺行為だ。だが、注意を引かなければリーナが死ぬ。
彼は渾身の力を込め、鈍色の『星喰の剣』を龍の脚部――骨とタールが複雑に絡み合った関節部分――に叩きつけた。
ガギィィィンッ!!
硬い。岩を殴ったような反動が腕に走り、剣が弾かれる。 表面の骨は砕けたが、その下の分厚いタールの層が衝撃を吸収してしまい、刃が通らない。
「クソッ! このなまくらがッ!」
焦りといら立ちが爆発する。 かつては自らの手足のように振るえ、あらゆる敵を断ち切ってきた愛剣が、今はただの重い鉄の棒でしかない。
リオスの攻撃は、龍にダメージを与えることはできなかったが、その意識をリーナから逸らすことには成功した。
「ブゥォォォン!」
龍が鬱陶しそうに尾を振り回す。 丸太のような太さの尾が、リオスの脇腹を直撃した。
「がはっ!?」
肺の中の空気が強制的に吐き出され、リオスの体が鞠のように吹き飛んだ。 遺跡の柱に背中から激突し、そのまま地面に崩れ落ちる。
「リオス!」
リーナの悲鳴が聞こえた。
「かはっ、ごほっ……!」
口の中に鉄の味が広がる。視界がぐらぐらと揺れ、全身の骨が悲鳴を上げている。 痛い。苦しい。 だが、それ以上に、情けなかった。
(まただ……。また、俺は……)
地面に這いつくばりながら、薄れゆく意識の中で、リオスは龍がゆっくりと自分の方へ向き直るのを見た。 圧倒的な力の差。死の予感が、冷たい手で心臓を鷲掴みにする。
だが、その時。 朦朧とする視界の端で、エリアスが必死に投げつけた錬金術の火炎瓶が龍の顔面で炸裂し、わずかにその動きを止めた。 そして、動けないはずのリーナが、結晶石を両手で掲げ、ふらふらと立ち上がるのが見えた。
「……森を、いじめないで」
彼女の細い声が、轟音の中でも不思議と鮮明に響いた。 結晶石が、これまでにないほど強い光を放ち始める。それは、絶望という名の泥沼に沈みかけていたリオスの意識を、強引に引き戻す導きの光だった。
卓上の語り部でございます。
第四十九話『屍の龍、根を喰らう影』をお届けいたしました。
神話の邪龍『ニヴェルガンド』の名を冠する、腐敗の化身。その力は想像を絶するものでした。触れるものすべてを溶かすブレス、存在しているだけで生命を削り取る禍々しい律動。そして何より、リオスの愛剣すら通じない強固な肉体。圧倒的な絶望が、彼らを包み込みました。
一度は心折れかけたリオス。しかし、絶望という名の泥沼に沈みゆく彼の意識を引き戻したのは、最も守るべき存在であるリーナの、祈りにも似た声でした。彼女の強い意志に応え、結晶石が放った清浄な光。それが、リオスを繋ぎ止めたのです。
この光は、腐りきった戦場に何をもたらすのでしょうか。そしてリオスは、再び立ち上がり、剣を振るうことができるのか。
物語は、いよいよ最大のクライマックスへと突入します。 次回の展開も、どうぞご期待ください。
P.S. 本作の世界観設定や登場人物の紹介、アヴェリア大陸の地図などは、Webサイト「Table Talker's Log」にて公開しております。物語をより深く楽しむための補足情報として、ぜひご活用ください。
https://tabletalker.info/category/avelia/
卓上の語り部より、敬具。




