第四十八話『脈打つ黒泥の心臓』
ドクン、ドクン、ドクン……。
耳鳴りではない。それは、この空間そのものが発している音だった。 崩れ落ちた古代エルフの遺跡。その石畳や柱を覆い尽くす黒い粘液と赤黒い蔦が、まるで巨大な一つの生物の血管のように脈打ち、不快な重低音を響かせているのだ。
「うっ……く……」
リーナが胸元を押さえ、苦しげな呻き声を漏らす。 彼女の手にある碧色の結晶石は、今や触れれば火傷しそうなほどの熱を帯び、激しく明滅していた。森の悲鳴が、結晶石を通じて彼女の体に直接流れ込んでいるのだ。
「リーナ、大丈夫か!?」
リオスが駆け寄ろうとするが、リーナは気丈に首を横に振った。
「平気……。それより、あれを……」
彼女が震える指先で示した先――遺跡の中央広場だった場所に、その「元凶」はあった。
それは、巨大な肉腫のようだった。 かつては美しい噴水か祭壇があったであろう場所に、黒いタールと赤黒い繊維が複雑に絡み合い、高さ数メートルにも及ぶ醜悪な塊を形成していた。 周囲の蔦はすべてこの塊から伸びており、ここが腐敗の心臓部であることは疑いようがなかった。
「なんという……冒涜的な光景でしょう」
エリアスが戦慄した声で呟く。
「これは自然な腐敗ではありません。何者かが意図的に森の生命力を吸い上げ、この醜悪な『核』へと変換しているのです」
リオスは言葉を失った。 圧倒的な「死」と「悪意」の塊を前にして、本能的な恐怖が全身を駆け巡る。背中の大剣が、いつも以上に重く、冷たく感じられた。
(こんなものと、戦うのか? 俺が?)
霧の中で見た幻影が、再び脳裏をよぎる。『お前は誰も守れない』という冷笑が、耳元で囁くようだ。
その時だった。
ズズズッ……と、中央の「核」が蠢いた。 リーナの結晶石が放つ清浄な光に反応したのか、黒い塊の表面に無数の亀裂が走り、そこから新たなタールが噴き出した。
「来ます! 構えてください!」
エリアスの警告と同時に、黒い塊から数本の太い触手が、鞭のようにしなりながら彼らに襲いかかった。
「くそっ!」
リオスは反射的に大剣を引き抜き、目の前に迫った触手を受け止めた。
ゴィィィンッ!
金属音ではない。重いゴムの塊を叩いたような、鈍く、嫌な感触が手に残る。衝撃で腕が痺れ、リオスは数歩後ずさった。
(硬い……! それに、なんだこの力は!)
ただの粘液の塊ではない。明確な殺意と、生物的な筋肉の躍動がそこにあった。
別の触手が、エリアスを狙う。彼は錬金術のフラスコを投擲し、爆発炎上させて触手を怯ませたが、決定打にはならない。炎の中でも触手は再生を始めていた。
「再生能力が高すぎます! このままではジリ貧です!」
そして、最も太く、禍々しい気配を纏った触手が、動けないリーナへと狙いを定めた。
「リーナ!」
リオスは叫んだ。 だが、体が一瞬、硬直した。 恐怖が、自信のなさが、彼の足を縫い止める。間に合わない――そんな諦めの思考が、コンマ一秒、彼の行動を遅らせた。
その隙を、敵は見逃さない。 黒い触手が鎌首をもたげ、リーナを串刺しにしようと襲いかかる。
『――助けて――』
結晶石を通じて、森の声が、あるいはリーナの声が、リオスの頭の中に響いた。
ドクンッ。 リオスの心臓が、痛いほど強く跳ねた。
(違う!)
幻影の声がかき消える。 守れないんじゃない。守るんだ。 そのために、俺はこの場に立っているんだ!
「うおおおおおっ!!」
リオスは獣のような咆哮を上げ、地面を蹴った。 思考よりも早く、体が動いていた。恐怖も、劣等感も、すべてを塗りつぶすような、純粋な衝動。
彼はリーナと触手の間に滑り込み、渾身の力で大剣を横薙ぎに振るった。
ズォォォンッ!!
鈍い衝撃音が響き、リオスの体が大きく吹き飛ばされた。 彼は地面を転がり、咳き込みながら血を吐いた。
だが。
「……リオス!」
リーナは無事だった。 リオスの大剣が、触手の軌道をわずかに逸らし、彼女を直撃から救ったのだ。
「げほっ、がはっ……!」
リオスはふらつく足取りで立ち上がった。口元の血を乱暴に拭い、再び大剣を構える。 剣はまだ、鈍色のままだ。何の光も放っていない、ただの鉄の塊。
それでも。
彼は、リーナを背に庇い、圧倒的な絶望の象徴である黒い「核」を睨みつけた。 震える膝を叱咤し、恐怖を怒りでねじ伏せる。
「これ以上……好きにはさせねぇぞ、化け物……!」
彼の言葉に応えるように、「核」がゴボリと不快な音を立てて脈打ち、その巨大な質量全体が蠢き始めた。
絡み合っていた赤黒い蔦とタールが解け、再構築されていく。内部に取り込まれていた動物や――あるいはかつてのエルフたちのものかもしれない――無数の白い骨が表面に浮き出し、それらが組み合わさって強固な装甲と爪牙を形成していく。 そして、粘液が翼のように広がり、腐臭を撒き散らす巨大な影が生まれた。
それは、おとぎ話に出てくる勇壮な翼ある竜とは似ても似つかない、腐敗と死を纏った、おぞましい龍の形をした「何か」だった。
卓上の語り部でございます。
第四十八話『脈打つ黒泥の心臓』をお届けいたしました。
ついに、森を腐敗させる元凶である「核」と対峙したリオスたち。 圧倒的な悪意の塊を前に、一度は恐怖と無力感に足を止めかけたリオスでしたが、仲間の危機が彼を突き動かしました。幻影を振り払い、身を挺してリーナを守ったその一歩は、彼が再び「守護者」としての覚悟を取り戻すための大きな一歩だったと言えるでしょう。剣はまだ鈍色のままですが、彼の瞳には確かな光が宿っています。
しかし、彼らの覚悟を嘲笑うかのように、「核」はその真の姿を現しました。 タールと骨で構成された、おぞましい「龍」の姿。それは、この森の絶望そのものが具現化したかのような存在です。
果たして、リオスたちはこの規格外の脅威にどう立ち向かうのか。そして、彼の『星喰の剣』は再び輝きを取り戻すことができるのでしょうか。
物語は最大の山場を迎えます。 次回の熱戦にも、どうぞご期待ください。
P.S. 本作の世界観設定や登場人物の紹介、アヴェリア大陸の地図などは、Webサイト「Table Talker's Log」にて公開しております。物語をより深く楽しむための補足情報として、ぜひご活用ください。
https://tabletalker.info/category/avelia/
卓上の語り部より、敬具。




