第四十七話『鈍色の焦燥と霧の幻影』
足元の腐葉土が、踏みしめるたびにジュクジュクと嫌な音を立てる。 鼻を突く甘ったるい腐臭は、奥へ進むにつれて濃度を増し、喉の奥に粘りつくようだった。
「……クソッ」
リオスは短く毒づき、背中の大剣の位置を直した。 重い。いつも以上に、鉄の塊が肩に食い込んでくるように感じる。 先ほどの戦闘での疲労だけが原因ではない。彼自身の心に澱のように溜まった焦りと、己への失望が、物理的な重みとなってのしかかっていたのだ。
(俺は何のために、この剣を背負ってるんだ)
前を行く二人を見る。 リーナは顔色こそ蒼白だが、その瞳には強い意志の光を宿し、結晶石の導きを信じて一歩一歩進んでいる。彼女がいなければ、まともに道を進むことすらできない。 エリアスは、周囲の異常な植生を観察し、時折手帳に何かを書き留めている。彼の知識と錬金術は、未知の脅威に対する唯一の対抗策だ。
二人は、それぞれの「力」で戦っている。 だが、自分はどうだ。 肝心な時に『星喰の剣』は沈黙し、ただの重い鉄屑と化す。先ほどのような下級の魔物相手にすら後れを取り、二人に助けられる始末。
「……リオス?」
不意に、リーナが足を止めて振り返った。彼女の手の中の結晶石が、不安げに揺らめいている。
「顔色が悪いよ。少し、休む?」
「……いや、平気だ。問題ない」
リオスは努めて平静を装い、彼女の視線から逃れるように顔を背けた。 心配されることすら、今の彼には惨めだった。
「気を付けてください。この辺りから、空気の質が変わってきました」
エリアスがハンカチで口元を覆いながら警告した。
彼の言う通り、周囲にはいつの間にか、薄紫色のかかった奇妙な霧が立ち込め始めていた。視界が悪くなり、数メートル先すらぼんやりと霞んで見える。
「この霧……ただの霧じゃない。微弱ですが、幻覚作用のある胞子が含まれている可能性があります。あまり深く吸い込まないように」
「次から次へと……厄介な場所だな、ここは」
リオスは布の上から口元を押さえ、警戒を強めた。 だが、焦燥感で乱れた彼の呼吸は、知らず知らずのうちにその毒気を体内に取り込んでしまっていた。
(……なんだ?)
視界の端で、何かが動いた気がした。 捻じ曲がった木の影が、人の形に見える。
「……ゼノス?」
リオスは思わずその名を呼んだ。 霧の向こうに、あの長身の傭兵が立っているように見えたのだ。だが、様子がおかしい。彼は片膝をつき、体から大量の血を流していた。
『――遅かったな、リオス』
幻聴が聞こえた。ゼノスの声だ。だが、それはひどく冷たく、嘲るような響きを含んでいた。
『お前がもたもたしている間に、俺はこんな様だ。……結局、お前は誰も守れない』
「違う……俺は……!」
『守れないさ。あの時も、そしてこれからも。お前はそのなまくら刀を抱えて、ただ仲間の死を見ているだけだ』
「やめろ……!」
リオスの呼吸が荒くなる。心臓が早鐘を打ち、冷や汗が噴き出す。 幻影だと頭では理解していても、心に巣食う不安がそれを現実だと錯覚させる。 彼は背中の大剣に手をかけた。だが、腕が鉛のように重く、引き抜くことすらできない。
(動け、動けよ! なんで動かねぇんだ!)
自分の無力さが、幻影となって彼を責め立てる。 霧が濃くなり、ゼノスの幻影が崩れ落ちたかと思うと、今度はリーナの悲鳴が聞こえた気がした。
「――ス、リオス!」
誰かに肩を強く揺さぶられ、リオスはハッと我に返った。
目の前には、心配そうに覗き込むリーナの顔があった。彼女の手にある結晶石が、温かい碧色の光を放ち、リオスの周囲の霧を払いのけていた。
「大丈夫? 急に立ち止まって、うなされてたみたいだけど」
「……ああ。悪い、少し気が抜けてたみたいだ」
リオスは額の脂汗を拭い、荒い息を整えた。 幻覚は消えた。だが、胸に残る嫌な動悸は収まらない。 自分が最も恐れている「無力な自分」を、まざまざと見せつけられた気分だった。
「霧の毒気に当てられたのでしょう。リーナさんの結晶石が放つ律動が、解毒の作用をしてくれたようです」
エリアスが安堵のため息をつく。
「ですが、長居は無用です。この霧は精神の隙につけ込んできます。心を強く持ってください」
「……わかってる」
リオスは短く答え、再び歩き出した。 足取りは重い。だが、ここで立ち止まるわけにはいかない。
霧が少しずつ晴れていくと、彼らの目の前に奇妙な光景が広がった。
「これは……」
森が開け、少し開けた場所に出た。 そこには、かつてこの森に住んでいた古代エルフたちのものと思われる石造りの遺跡が、無惨な姿で横たわっていた。
石柱は折れ、崩れた壁は、黒いタールのような粘液と、血管のように脈打つ赤黒い蔦に完全に覆い尽くされている。それはまるで、遺跡そのものが病に侵され、腐った肉塊へと変貌しようとしているかのような、おぞましい光景だった。
「見てください。この惨状……おそらく我々は、森の異変の『発生源』に近づいているのでしょう。それが、目指す『聖域の大樹』とどう関わっているかは分かりませんが……」
エリアスが眼鏡の位置を直し、緊張した面持ちで言った。 リーナが持つ結晶石が、ここに来て一層強く、激しく明滅を始めていた。それは、目的地が近いことを示す合図であり、同時に、最大の危険が迫っていることへの警告でもあった。
卓上の語り部でございます。
第四十七話『鈍色の焦燥と霧の幻影』をお届けいたしました。
腐敗した森の奥深くへ進むにつれ、リオスの心は焦燥感に蝕まれていきます。 仲間たちがそれぞれの力で懸命に前に進む中、肝心な時に力を発揮できない自分の無力さ。その心の隙を、幻覚の霧は見逃しませんでした。彼が最も恐れる「誰も守れない自分」という幻影を見せつけられた精神的疲労は、計り知れません。
そして、霧が晴れた彼らを待っていたのは、見るも無惨に変わり果てた古代エルフの遺跡でした。脈打つ血管のような蔦と、黒い粘液に覆われたその姿は、まさにこの森を蝕む「病巣」そのものと言えるでしょう。
リーナの持つ結晶石は激しく明滅し、最大の危機が迫っていることを告げています。 異変の発生源を前に、果たしてリオスは己の焦燥と無力感を乗り越え、再び剣を振るうことができるのでしょうか。
物語は一つのクライマックスを迎えようとしています。 次回の展開も、どうぞご期待ください。
P.S. 本作の世界観設定や登場人物の紹介、アヴェリア大陸の地図などは、Webサイト「Table Talker's Log」にて公開しております。物語をより深く楽しむための補足情報として、ぜひご活用ください。
https://tabletalker.info/category/avelia/
卓上の語り部より、敬具。




