第四十六話『腐敗の深淵へ』
「……ひどい匂いだ」
リオスは鼻を覆う布をきつく縛り直しながら、顔をしかめた。 洞窟――『忘れられた聖域』から一歩踏み出した彼らを待っていたのは、これまでとは比較にならないほど濃密な死の気配だった。
空気は湿り気を帯びて重く、熟れすぎた果実が腐り落ちたような甘ったるい悪臭と、鉄錆のような血の匂いが混じり合っている。まとわりつくような瘴気が、肌をじっとりと濡らしていく。
「気をつけてください。ここから先の植生は、明らかに異常です」
エリアスが小声で警告する。彼の視線の先には、捻じ曲がり、奇妙な瘤だらけになった木々が並んでいた。樹皮からは黒いタールのような樹液が滲み出し、それが地面に落ちて周囲の下草を枯らしている。
「ああ、見りゃわかる。まともな場所じゃねぇな」
リオスは背中の『星喰の剣』の柄に手をかけ、油断なく周囲を警戒しながら進んだ。 ゼノスが引きつけたあの巨大な怪物の気配はない。だが、この森にはもっと別の、おぞましい何かが潜んでいる気配が濃厚に漂っていた。
「こっち……みたい」
先頭を歩くリーナが、夢遊病者のような足取りで進む。 彼女の右手の中で、碧色の結晶石が、ドクン、ドクンと脈打ち、蛍火のような光を放っていた。その光は、周囲の闇が深まるにつれて、より強く、鮮明な輝きを帯び始めていた。
「リーナ、大丈夫か? 無理はするなよ」
リオスが声をかけると、リーナは少しだけ振り返り、力なく微笑んだ。
「平気。ただ……森の声が、すごく大きくなってる。悲鳴とか、怒りとか、いろんな感情が混ざってて……少し、頭が痛いけど」
彼女はそう言いながらも、結晶石が示す方向――道なき獣道へと迷わず足を踏み入れていく。
彼らの行く手は、茨と腐った蔦が複雑に絡み合った、天然のバリケードによって幾度も阻まれた。
「行き止まりか?」
リオスが舌打ちをして、剣で蔦を切り払おうとした時だ。
「待って、リオス。切っちゃだめ」
リーナが鋭い声で制止した。彼女は結晶石をかざし、茨の壁の一部を指差した。
「ここの茨、生きてる。下手に刺激すると、襲ってくるって……石が教えてくれてる」
「なんだと?」
よく見ると、その茨のトゲは生き物の牙のように鋭く、表面が微かに蠢いているようにも見えた。もしリーナの警告なしに切りつけていたら、ただでは済まなかっただろう。
「安全な道は、こっち」
リーナは結晶石の光を頼りに、一見するとただの木の根の隙間にしか見えない場所を指し示した。半信半疑でリオスがそこへ足を踏み入れると、そこだけ奇妙なほど足場が安定しており、茨も自然と避けるように道ができていた。
「なるほど……。これは一見するとただの地形の隙間ですが、古代エルフたちが森と共生する中で見出した『自然の隠し通路』なのでしょう。この結晶石は、かつての森の姿を記憶しており、安全な経路を我々に示しているのかもしれません」
エリアスが感嘆の声を漏らす。リーナと結晶石の導きがなければ、彼らはとうの昔にこの腐敗した迷宮で立ち往生していただろう。
だが、進めば進むほど、リオスの焦燥感は募っていった。 リーナは危険な森の「声」を受け止めながら、必死に道を示している。エリアスは知識でそれを補佐している。 それに比べて、自分はどうだ。 ただ剣の柄を握りしめ、周囲を睨みつけているだけ。肝心な時に力を発揮できなかった役立たずの護衛。
(クソッ、俺は何をやってるんだ……!)
その時だった。
カサカサカサッ――!!
足元の腐葉土を掻き分けるような、乾いた音が周囲から響き渡った。
「何か来る!」
リオスが叫び、リーナを背後に庇う。
次の瞬間、地面や木の洞から、無数の影が飛び出した。 それは、枯れ木と虫が融合したような、醜悪な姿をした魔物たちだった。大きさは子供ほどだが、その数は十や二十ではない。鋭い鎌のような前脚と、赤く発光する複眼が、闇の中で不気味に揺らめく。
「『腐食蟲』の群れです! 数は多いですが、個体はそれほど強くありません!」
エリアスが即座に分析し、懐から小さな錬金術のフラスコを取り出した。
「リーナを頼む! 俺が前に出る!」
リオスは吼え、背中の大剣を引き抜いた。 ズシリと重い、鉄の塊。あの時見せたような奇妙な輝きはない。手に伝わるのは冷たい金属の感触だけだ。
(それでも、やるしかねぇんだよ!)
彼は自身の膂力だけに頼り、大剣を横薙ぎに振るった。
ゴォォンッ!
風切り音と共に、先頭にいた数匹の腐食蟲がまとめて吹き飛び、木の幹に激突して砕け散った。
だが、残りの群れは怯むことなく、四方八方からリオスに襲いかかった。鋭い鎌がリオスの腕や頬を掠め、鮮血が飛ぶ。
「チッ、ちょこまかと……!」
リオスは焦った。数が多すぎる。大剣の一撃は強力だが、隙が大きい。このままではジリ貧だ。 脳裏に、あの時――巨大な怪物相手に何もできなかった時の記憶がフラッシュバックする。
(またかよ。また俺は、守れねぇのか!?)
「リオス! 右です!」
エリアスの警告と同時に、フラスコが投げ込まれた。パァン!と破裂音がして、刺激臭のある煙が広がる。右側から迫っていた蟲たちが、煙に巻かれて動きを止めた。
その隙を見逃さず、リオスは大剣を振り下ろす。
ドォォォン!!
地面を叩き割るような一撃が、動きの止まった蟲たちを粉砕した。
「はぁ、はぁ、はぁ……ッ!」
最後の数匹が逃げ去り、周囲に静寂が戻る。リオスは肩で息をしながら、血に濡れた大剣を地面に突き立てた。
勝った。だが、ただの雑魚の群れ相手に、満身創痍だった。
「……大丈夫か、二人とも」
「ええ、おかげさまで。ナイスファイトでした、リオス君」
エリアスが労いの言葉をかけるが、リオスの耳には虚しく響いた。彼は無言で剣の血を拭い、再び背中に戻した。
「……リオス」
リーナが心配そうに彼の袖を引く。彼女の持つ結晶石が、悲しげに弱く明滅していた。
「平気だ。かすり傷だよ。それより、先を急ごう」
リオスは彼女の視線から逃げるように顔を背け、再び歩き出した。 焦りと無力感が、腐った瘴気と共に、彼の胸の中で渦を巻いていた。
卓上の語り部でございます。
第四十六話『腐敗の深淵へ』をお届けいたしました。
『忘れられた聖域』を一歩出た彼らを待っていたのは、鼻を突く死臭と、おぞましく変異した森の姿でした。リーナと結晶石の導きがなければ、一歩たりとも進むことすら許されない、まさに死の迷宮です。
そんな過酷な環境の中、リオスの心は焦りと無力感に蝕まれていきます。 襲いかかる『腐食蟲』の群れ。エリアスの助けもあり辛うじて撃退しましたが、ただの雑魚相手に苦戦を強いられた事実は、彼のプライドを深く傷つけました。背中の大剣は沈黙したまま、彼に応えようとしません。
リーナは痛みに耐えながら道を示し、エリアスは知識でそれを支える。自分だけが何もできていない――そんなリオスの悲痛な叫びが聞こえてくるようです。
腐敗した深淵の奥底で、彼らを待ち受けるものとは。そして、リオスは自身の無力感とどう向き合うのか。
物語はより暗く、深い場所へと進んでいきます。 次回の展開も、どうぞご期待ください。
P.S. 本作の世界観設定や登場人物の紹介、アヴェリア大陸の地図などは、Webサイト「Table Talker's Log」にて公開しております。物語をより深く楽しむための補足情報として、ぜひご活用ください。
https://tabletalker.info/category/avelia/
卓上の語り部より、敬具。




