第四十三話『忘れられた聖域』
「はぁ、はぁ、はぁ……ッ!」
リオスの荒い呼吸音だけが、死んだように静かな森に響いていた。 肺が焼けつくように熱い。足は鉛のように重く、一歩踏み出すたびに泥に足を取られそうになる。それでも、彼は走るのをやめるわけにはいかなかった。
腕の中には、気を失いかけているリーナがいる。背中には、呪いのように重い『星喰の剣』がある。そして何より、背後には仲間が命がけで作ってくれた「時間」があった。
「リオス君、こ、こちらへ! このまま真っ直ぐでは、また開けた場所に出てしまいます!」
後方から、エリアスの切迫した声が飛んできた。彼もまた、限界に近い体力を振り絞り、学者としての知識を総動員して逃走ルートを選定していた。
「くそっ……ゼノスの野郎、無茶しやがって……!」
リオスは奥歯を噛みしめ、エリアスが示した、茨が密生する獣道へと強引に体をねじ込んだ。鋭い棘が頬や腕を掠め、服を引き裂くが、構ってはいられない。
あの異形の怪物の咆哮は、もう聞こえなかった。 それが意味することは二つ。ゼノスが上手く奴を引き離したか、それとも――。
不吉な想像を振り払うように、リオスはさらに足を速めた。
どれほど走り続けただろうか。 周囲の景色は相変わらず鬱蒼とした緑の牢獄だが、彼らは少しずつ森のさらに深い場所、地形が複雑に入り組んだエリアへと入り込んでいた。
「……ここなら、一時的に身を隠せるかもしれません」
エリアスが足を止めたのは、周囲の木々を圧するほど巨大な、枯れた古木の根元だった。 その巨木は、遥か昔に雷にでも打たれたのか、幹の上部が失われており、残った根元の部分が大きく抉れて、人が数人は入れるほどの洞窟のような空洞を作っていた。
「……リオス、ここ……」
腕の中で、リーナが微かに目を開けた。その瞳は、熱に浮かされたように潤んでいる。
「どうした、リーナ? 気分が悪いのか?」
「ううん……違うの。ここ、何かが……呼んでる気がする」
「呼んでる?」
リオスは怪訝な顔をしたが、今はとにかく休息が必要だった。彼は警戒を怠らず、ゆっくりと空洞の中へと足を踏み入れた。
内部は湿気がこもっていたが、外の不気味な静寂とは異なる、どこか落ち着いた、張り詰めた空気が流れていた。地面には乾燥した苔が厚く敷き詰められており、天然の絨毯のようになっている。
リオスは苔の上にリーナをそっと寝かせると、その場にへたり込んだ。緊張の糸が切れ、全身の筋肉が悲鳴を上げる。
「大丈夫か、リーナ」
「う、ん……。ごめんね、リオス。私、重かったでしょ……」
「馬鹿言うな。お前一人くらい、なんてことねぇよ」
リオスは強がって見せたが、握りしめた拳は微かに震えていた。自分の不甲斐なさが情けなかった。あの時、剣の力を引き出せていれば。もっと自分に力があれば、ゼノスを危険に晒すこともなかったかもしれない。
「……彼のことは、信じるしかありません」
エリアスが眼鏡の位置を直し、リオスの心情を察したように静かに言った。彼もまた、息を整えながら、洞窟の入り口に罠がないか、慎重に確認している。
「ゼノス殿は百戦錬磨の傭兵です。引き際も心得ているはず。我々がここで生き延びることこそが、彼の行動に報いる唯一の方法です」
「……ああ、分かってる。分かってるが……!」
リオスは苛立ちをぶつけるように、洞窟の壁面――枯れた木の内側を拳で叩いた。
ドォン、と鈍い音が響き、乾燥した樹皮がパラパラと剥がれ落ちた。
その時だった。 剥がれ落ちた樹皮の下から、奇妙な「光」が漏れ出した。
「え……?」
リオスが動きを止める。 それは、月明かりのような、青白く淡い光だった。光は、木の幹に直接刻み込まれた、複雑で緻密な紋様から発せられていた。
「これは……古代文字? いや、それだけじゃない」
エリアスが驚愕の声を上げ、駆け寄ってきた。彼は懐から小さな手帳を取り出し、震える手で紋様を書き写し始めた。
「信じられない……。これは、アスティラの遺跡で見つかるものよりも、さらに古い時代の様式です。単なる文字記録ではなく、これ自体が何らかの力を発動させるための『術式紋様』に見えます」
「術式だって? こんな森の奥深くに?」
リオスが眉をひそめる。
「……やっぱり、この光だったのね」
体を起こしたリーナが、その青白い光を見つめながら、夢心地のような声で言った。彼女はふらつく足取りで立ち上がり、吸い寄せられるように壁面の紋様に近づいていく。
「リーナ、危ないぞ!」
リオスが止めようとするが、リーナは聞かずに手を伸ばし、その指先が紋様に触れた。
その瞬間。 洞窟内の空気が震え、キィィィン……という耳鳴りのような高音が響いた。青白い光が脈動するように強まり、洞窟全体を照らし出す。
「なっ……!?」
リオスが身構える中、光る紋様の一部がスライドし、隠されていた小さな窪みが現れた。 そこには、手のひらサイズの、透き通るような碧色の結晶石が一つ、収められていた。結晶石は周囲の空気を歪ませるほどの強いエネルギーを放っており、おいそれとは触れられそうにない。
「これは……!」
エリアスが息を呑み、その結晶石を凝視した。彼の脳裏に、古い文献で読んだ様々な仮説がフラッシュバックする。
「これほどの純粋なエネルギーを秘めた結晶体……。私の知識にもありません。ですが、もしかするとこれこそが、我々が求めていた古代文明の『触媒』そのもの、あるいはそれに匹敵する『伝説の遺物』なのかもしれません」
エリアスはその神々しくも異質な光景に圧倒され、呆然と呟いた。
「この忘れられた森の深淵に、このような場所があったとは……。まるで、下界から切り離された古代の『聖域』のようだ」
外では依然として死の静寂が支配する中、彼らが導かれるようにたどり着いたその場所は、新たな謎と、制御不能な力の予感で満たされ始めていた。
卓上の語り部でございます。
第四十三話『虚ろな聖域』をお届けいたしました。
仲間を救うために自ら囮となったゼノス。彼の決死の行動により、リオスたちは辛くも怪物の追跡から逃れることができました。しかし、それは頼れる仲間との離別を意味しています。疲労と焦燥、そして無力感に苛まれるリオスの姿は、見ていて痛々しいものがありました。
そんな極限状態の中、リーナの不思議な感覚に導かれるようにして、彼らは森の奥深くに隠された奇妙な空間へとたどり着きます。そこで発見したのは、未知の古代文明の痕跡と、強大なエネルギーを秘めた碧色の結晶石でした。
博識なエリアスでさえ見たことがないという、この謎の結晶石。果たしてこれが、彼らが求めていた「希望」となるのか、それとも新たな「災厄」の引き金となるのか。
残されたゼノスの安否、そして結晶石がもたらす運命。物語は新たな局面を迎えます。 次回の展開も、どうぞご期待ください。
P.S. 本作の世界観設定や登場人物の紹介、アヴェリア大陸の地図などは、Webサイト「Table Talker's Log」にて公開しております。物語をより深く楽しむための補足情報として、ぜひご活用ください。
https://tabletalker.info/category/avelia/
卓上の語り部より、敬具。




