第四十二話『歪な捕食者』
張り詰めた静寂を引き裂き、それは樹冠から落下するように姿を現した。
ドォォォンッ!!
重量のある何かが地面に激突し、腐葉土と泥が爆発したように舞い上がる。衝撃で周囲の木々が軋み、大量の葉が緑の雨となって降り注いだ。
土煙が晴れると同時に、その「異形」が全貌を現す。 リオスは思わず息を呑み、構えた剣の柄を握りしめた。
それは、巨大な類人猿のようだった。だが、決定的に何かが狂っていた。
体長は優に三メートルを超え、筋肉隆々の腕は丸太のように太い。全身を覆う体毛は苔や蔦と一体化しており、緑と茶褐色のまだら模様を形成している。そして何より異様なのは、その両腕の先端だった。指の代わりに、黒く捻じれた木の根のような、鋭利な鉤爪が五本、生えているのだ。
「……グルルルルゥ……」
低い唸り声とともに、濁った黄色の眼球がギョロリと動いた。知性の光は一切感じられない。あるのは、底なしの飢餓感と破壊衝動だけだ。
「な、なんだアレは!? 猿……なのか?」
リオスの問いに、エリアスが蒼白な顔で首を横に振る。
「い、いえ……私の知る限り、このような生物の記録はありません。骨格は『森猩々(フォレスト・エイプ)』に似ていますが、体表の植物化やあの爪は、明らかに異常です!」
「新種発見、と喜んでいる場合ではなさそうだな」
ゼノスが低い声で呟き、両手に構えた短剣を逆手に持ち替えた。歴戦の傭兵の勘が告げている。目の前の存在は、ただの猛獣ではない、と。
「来るぞ! 散開しろ!」
ゼノスの鋭い指示が飛ぶのと同時だった。 異形の怪物が、その巨体に見合わぬ速度で跳躍した。
狙いは、最も小柄で弱そうな獲物――リーナだった。
「しまっ――!」
リオスが反応するより早く、怪物の鉤爪がリーナに迫る。リーナは恐怖で動けない。
ガギィィンッ!!
寸前で金属音が響き、火花が散った。 ゼノスが間に割って入り、二本の短剣を交差させて鉤爪を受け止めたのだ。
「ぐっ……! 重いな、化け物め!」
ゼノスの腕の筋肉が悲鳴を上げる。膂力では完全に負けていた。彼は受け流すように体を捻り、怪物の爪を逸らすと、その勢いを利用して後方へ跳んだ。
「シャァァァッ!!」
獲物を逃した怪物が苛立ちの咆哮を上げ、今度は目の前のゼノスに標的を変える。 左腕の鉤爪が、大木をも薙ぎ倒す勢いで横薙ぎに振るわれた。
「遅い!」
ゼノスは姿勢を低くしてその一撃を潜り抜けると、怪物の懐に飛び込んだ。右手の短剣が脇腹を、左手の短剣が太腿を切り裂く。
ズプッ、ザクッ!
確かな手応えがあった。だが、傷口から流れ出たのは鮮血ではなく、白濁した粘度の高い樹液のような液体だった。
「……硬いな。それに、こいつは痛みを感じていないのか?」
ゼノスが顔をしかめて後退する。怪物は傷を気にする素振りすら見せず、暴風のように腕を振り回し続けた。
「くそっ、なら、こいつはどうだ!」
リオスは歯を食い縛り、全身の力を振り絞ろうとした。 (喰らえ、星喰み!) 心の中で叫び、剣に自らの闘志を流し込もうとする。いつものように刃が黒いエネルギーを纏い、敵の「律動」そのものを喰らい尽くすイメージを描く。
だが――剣は沈黙したままだ。 荒野での酷使、そして続く緊張状態。少しの休息では、枯渇した体力と、常に剣の「飢え」を御するための精神力は戻っていなかったのだ。 剣はただ重く、冷たく、リオスの意志に応えようとはしない。
「……ちっ、出ねぇかよ!」
リオスは悪態をつきながらも、『星喰の剣』を上段に構え、突進した。捕食の力が使えずとも、この剣自体の並外れた切れ味と重量は健在だ。
「はぁぁぁっ!」
渾身の力で振り下ろされた黒い刃が、怪物の右肩に食い込んだ。
ドォンッ!
肉と骨、そして植物の繊維が断ち切られる鈍い音が響く。右腕が半ばまで切断され、ダラリとぶら下がった。
「ギャアァァァァッ!!」
初めて怪物が苦痛の悲鳴を上げた。だが、それで怯むどころか、その凶暴性はさらに増したようだった。残った左腕をめちゃくちゃに振り回し、周囲の木々や地面を破壊しながら暴れ回る。
「下がるんだ、リオス君! まともにやり合うな!」
エリアスの叫び声が聞こえた。リオスは舌打ちをして、剣を引き抜きながら距離を取った。
「はぁ、はぁ……なんだよコイツ、頑丈すぎるだろ!」
リオスの息が上がる。ただでさえ消耗している体力をごっそりと持っていかれた。
暴れる怪物を前に、ゼノスが冷静に戦況を分析する。
「致命傷には程遠いか。再生能力があるかもしれん。ここで倒し切るのはリスクが高すぎる」
ゼノスは瞬時に判断を下した。
「撤退するぞ! 奴の注意を引く。その隙に逃げろ!」
ゼノスは足元の石を拾い上げ、怪物の顔面に投げつけた。
ゴツッ!
石は正確に怪物の額に命中した。怪物が激怒してゼノスに向き直る。
「こっちだ、ウドの大木!」
ゼノスは挑発しながら、リオスたちが逃げる方向とは逆に走り出した。怪物は雄叫びを上げ、ドスドスと地響きを立ててゼノスを追いかけていく。
「ゼノス!」
リオスが叫ぶが、エリアスがその腕を引いた。
「彼なら大丈夫です! 今は彼の判断を信じて、少しでも距離を稼ぐのです!」
「……くそっ!」
リオスは奥歯を噛みしめ、リーナを抱え上げると、エリアスと共に森の奥へと走り出した。
背後では、遠ざかっていく怪物の咆哮と、木々がなぎ倒される破壊音が、いつまでも響いていた。
卓上の語り部でございます。
第四十二話『歪な捕食者』をお届けいたしました。
ついに、この静寂な森がひた隠しにしていた「異変」が牙を剥きました。 彼らの前に現れたのは、既存の生態系から逸脱した、植物と肉体が融合した異形の怪物。その姿は、このウィスパーウッドという場所が、もはやただの自然ではないことを雄弁に物語っています。
アスティラからの逃避行で心身ともに摩耗していたリオスは、『星喰の剣』の真価を発揮することができませんでした。あの剣の力は絶大ですが、それを御するためには万全の状態が必要であるという、危うい一面が露呈した形となりました。
絶体絶命の窮地を救ったのは、歴戦の傭兵ゼノスの冷静な判断と、自らを囮にする献身でした。怪物を引きつけ、森の奥へと消えていった彼。果たして無事に合流することはできるのでしょうか。
分断された仲間、追ってくる異形、そして深まる森の謎。 次回の展開も、どうぞご期待ください。
ps. 物語の世界観をより深く知りたい方のための補足情報サイト「Table Talker's Log」を運営しております。登場人物の紹介や、アヴェリア大陸の地図などを公開しています。今回の舞台、ウィスパーウッドに関する情報も今後追加予定ですので、ぜひブックマークしてご活用ください。
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卓上の語り部より、敬具。




