第四十一話『渇きと知識、そして異変』
森の深淵へと足を踏み入れてから、どれほどの時間が経過したのだろうか。
頭上を覆う濃密な樹冠は時の移ろいを曖昧にし、昼なお暗い緑の迷宮は、彼らの距離感すらも狂わせていく。 まとわりつくような湿気は、動くたびに噴き出す汗を蒸発させることなく肌に留め、不快指数を跳ね上げていた。
「……くっ」
リオスは渇きで張り付いた喉から、短い呻き声を漏らした。 アスティラを脱出してから、まともに水分を摂っていない。灼熱の荒野での強行軍で体内の水分は枯渇寸前だった。その上、背中の『星喰の剣』が鉛の塊のようにのしかかり、一歩踏み出すごとに体力を削り取っていく。
隣を歩くリーナも限界が近いようだ。フードの下の横顔は蒼白で、足元は覚束ない。それでも彼女は気丈に唇を噛み、リオスに心配をかけまいと懸命に足を動かしている。
「ゼノス、水場はまだか……?」
リオスが掠れた声で尋ねると、先頭を歩く傭兵は足を止めず、短剣で邪魔な蔦を払いながら答えた。
「焦るな。闇雲に歩き回れば、それだけ体力を消耗する」
ゼノスは時折立ち止まり、湿った地面の苔や、巨大なシダ植物の葉の裏などを慎重に観察していた。
「この辺りは湿気が多いが、流れる水音が聞こえん。つまり、地表を流れる川は近くにないということだ」
「じゃあ、どうするんだよ。このままじゃ本当に干からびちまう」
「だからこそ、知識が必要なのですよ、リオス君」
後ろを歩いていたエリアスが、眼鏡のブリッジを中指で押し上げながら言った。彼も疲労の色は隠せないが、その瞳は学究的な光を失っていない。
「ゼノス殿は、獣の痕跡や地形から水脈を探っています。私は、植物の分布から水源を特定しようとしているのです」
エリアスは近くの巨木の根元に生える、奇妙な形のキノコの群生を指差した。傘が青白く発光し、粘液を垂らしている不気味なキノコだ。
「あれは『月の涙』と呼ばれる菌類の一種です。通常、地下水脈が地表近くまで上昇している場所や、岩盤の隙間に水が溜まりやすい場所に好んで生えます。しかも、これだけの群生だ。近くにまとまった水がある可能性が高い」
「さすがは先生だな。目の付け所が違う」
ゼノスが短く感嘆の声を上げ、エリアスが示した方向へと進路を変えた。
彼らは絡み合う木の根を乗り越え、腐葉土に足を取られながら、キノコの群生地の奥へと進んだ。 そして、巨大な岩盤が露出した場所に出た。岩の裂け目から、わずかではあるが、透き通った水が湧き出し、下の窪みに小さな泉を作っていた。
「あった……!」
リオスが駆け寄ろうとするのを、ゼノスが腕で制した。
「待て。まずは安全確認だ」
ゼノスは泉の縁に慎重に近づき、周囲に動物の足跡がないか、水面に奇妙な波紋がないかを確認する。そして短剣の先を水に浸し、匂いを嗅いだ。
「……毒はないようだ。だが、念のためだ。先生」
「ええ、わかっています」
エリアスは腰のポーチから小さな試験管を取り出した。中には透明な液体が入っている。彼はそれを泉の水に数滴垂らした。液体は白く濁ることなく、すぐに透明に戻った。
「簡易的な毒物反応試薬ですが、反応はありません。飲んでも大丈夫でしょう」
その言葉を聞いた瞬間、リオスは泉に手をつき、両手で水を掬って貪るように飲んだ。冷たく、少し土の匂いがする水が、乾ききった喉と体に染み渡っていく。これほど美味い水は飲んだことがないと思えるほどだった。
「リーナ、お前も飲め」
リオスは次にリーナを泉の縁に座らせ、水を掬って彼女の口元へ運んだ。リーナは小さく礼を言い、ゆっくりと水を飲む。数口飲むと、彼女の蒼白だった頬に、わずかに赤みが戻ってきた。
全員が渇きを癒やし、岩場に座り込んで短い休息を取った。 冷たい水は彼らに一時的な安息をもたらしたが、それと同時に、この森の異様さを際立たせることにもなった。
「……妙ですね」
エリアスが泉の周囲の植物を観察しながら、眉をひそめた。
「何がだ?」
「この辺りの植生です。先ほどの『月の涙』もそうですが、私の知る図鑑の記述と、微妙に特徴が異なっているのです。葉の形状が歪であったり、本来ありえない色の花が咲いていたり……」
エリアスは足元に生えていた、棘のある紫色の草を摘み上げた。
「これは通常、もっと乾燥した地域に生える毒草のはず。それがなぜ、このような湿潤な森の深部に? それに、この棘の大きさは異常です」
「環境に合わせて変化した、ってことじゃないのか?」
「ええ、その可能性はあります。ですが、変化の方向性が……何というか、生物としての調和を乱す方向に向かっているように感じるのです」
エリアスの言葉に、リーナが不安げに周囲を見回した。
「……音が、聞こえないの」
「音?」
「うん。森にはいつも、木々や風が奏でる、命の『響き』があるはずなの。でも、ここは……音が死んでる。何かに怯えて、息を潜めているみたい」
リーナの言葉が、その場の空気をさらに重くした。 物理的な脅威が去った後に訪れたのは、理解の及ばない自然への根源的な恐怖だった。
「……長居は無用だな」
ゼノスが立ち上がり、短剣を腰に収めた。
「水は確保した。次は食料だ。だが、先生の話を聞く限り、迂闊にそこらの植物を口にするのは危険かもしれん」
「ええ。キノコや果実は避けた方が賢明でしょう。となると、狙うべきは獣の肉ですが……」
その時だった。 彼らの頭上の梢が、風もないのに大きく揺れた。
ガサガサガサッ!
何かが、樹上を高速で移動している音。鳥や猿のような小型の生物ではない。もっと重量のある何かが、枝をへし折りながらこちらに近づいてきている。
全員が即座に立ち上がり、武器を構えた。 リオスも背中の剣を抜き放ち、音のする方向を睨みつける。
静寂の森に、招かれざる客の荒い鼻息が響き渡った。
卓上の語り部でございます。
第四十一話『渇きと知識、そして異変』をお届けいたしました。
命からがらウィスパーウッドの深淵へと逃げ込んだリオスたち。彼らの前に立ちはだかった最初の試練は、サバイバルにおける基本中の基本、「水」の確保でした。
経験豊富な傭兵であるゼノスと、博識な学者エリアス。この二人の知識と観察眼が合わさることで、彼らは何とか命の水源にたどり着くことができました。特にエリアスの植物学の知識が、思わぬ形で役に立ちましたね。
しかし、喉の渇きが癒えると同時に、彼らはこの森の根源的な「異常」に気づき始めます。生態系を無視した植物の分布、そして「真律」を歌い、世界の音を敏感に感じ取るリーナだからこそ気づけた、森の「死んだような静寂」。
この不気味な静けさの中、突如として現れた新たな脅威。 彼らが遭遇した「招かれざる客」の正体とは何なのか。
次回の展開も、どうぞご期待ください。
P.S. 本作の世界観や設定をより深く掘り下げるため、Webサイト「Table Talker's Log」にて補足情報を公開しております。アヴェリア大陸の地図や用語解説など、物語をより楽しむための資料を掲載していますので、ぜひ覗いてみてください。今回の舞台であるウィスパーウッドに関する情報も、今後追加していく予定です。
https://tabletalker.info/category/avelia/
卓上の語り部より、敬具。




