第三十九話『灼熱の逃避行、緑の壁』
太陽が中天へと昇るにつれ、荒野の様相は一変した。
夜明け前の骨まで凍るような冷気はなりを潜め、代わりにじりじりとした熱気が大地から立ち上り始める。頭上からは容赦ない日差しが降り注ぎ、彼らの体力を削り取っていった。
「……くそっ、暑くなってきやがった」
リオスは額を流れる汗を手の甲で拭い、呪態をついた。背負った『星喰の剣』が、太陽の熱を吸収してますます重く感じられる。肩に食い込む革紐の痛みが、一歩ごとに増していくようだ。
「水分補給を怠るな。この乾燥と熱だ。気づかないうちに脱水症状になるぞ」
ゼノスが腰の水筒を回しながら、短く注意を促す。 彼らは休憩を最小限に抑え、ひたすら北を目指していた。エリアスの懸念通り、日が昇れば上空からの監視の目がある。身を隠す場所のないこの荒野で発見されれば、それは死を意味していた。
一行の視線の先には、常に巨大な「緑の壁」があった。 夜明けには地平線の彼方に見える細い帯に過ぎなかったウィスパーウッドは、今や視界の半分を埋め尽くすほどの圧倒的な存在感で彼らに迫ってきていた。 近づくにつれ、その森が単なる木の集合体ではないことが分かってくる。一本一本が巨塔のように太く、天を突き刺すようにそびえ立つ古木の群れ。それらが密生し、太陽光すら拒絶する深い闇を内部に抱え込んでいるのだ。
「あと少し……」
リーナが乾いた唇を舐め、自らを鼓舞するように呟く。だが、その足取りは重い。徹夜の行軍とこの暑さは、彼女の体力を限界まで奪っていた。
その時だった。
「……止まりなさい。伏せて!」
最後尾を歩いていたエリアスが、鋭く短い声で警告を発した。 彼の視線は、まぶしい青空の一点に向けられている。
リオスたちは反射的にその場に屈み込み、わずかな岩陰や低木の影に身を寄せた。心臓が早鐘を打ち、喉がカラカラに乾く。
「何が見えた、先生」
ゼノスが視線を低く保ったまま尋ねる。
「北東の空。鳥にしては大きすぎます。――あれは、アスティラ王立飛竜騎士団『天の牙』の偵察騎兵でしょう」
エリアスの言葉に、リオスは息を飲んだ。アスティラが誇る最強の航空戦力。上空から獲物を見つければ、音もなく急降下してくる空の処刑人だ。
「チッ、やっぱり来やがったか。まだ距離はあるか?」
「ええ。まだ豆粒ほどですが、旋回しながら徐々にこちらへ捜索範囲を広げています。我々を見つけるのも時間の問題でしょう」
ゼノスが舌打ちをし、森までの距離を目測した。
「……ここから森の縁まで、まともに走れば三十分はかかる距離だ。この開けた場所で、隠れながら進むのは不可能に近い」
「どうする? このままここでやり過ごすか?」
リオスが尋ねると、ゼノスは首を横に振った。
「いや、この程度の岩陰じゃ、真上から見られれば一発だ。それに、奴らは一度怪しいと思えば執拗に調べる。じっとしている方が危険だ」
ゼノスの目が、覚悟を決めたように鋭く光った。
「賭けに出るぞ。奴らがこっちを向いていない隙をついて、森まで一気に走り抜ける」
「なっ……本気かよ!? 俺たちの今の体力じゃ、そんな長くは走れねぇ!」
リオスが悲鳴に近い声を上げる。足はすでに鉛のように重く、『星喰の剣』の重量が腰を砕きそうだった。
「やるしかない。奴が旋回して背を向けた瞬間が合図だ。死ぬ気で走れ」
ゼノスの有無を言わせぬ迫力に、リオスは反論を飲み込んだ。
上空の黒い点が、ゆっくりと旋回を始めた。 全員の神経が張り詰め、呼吸すら忘れるような数秒間。
そして、飛竜の影が彼らと反対方向へ機首を向けた瞬間――。
「今だ! 走れ!!」
ゼノスの号令と共に、四人は岩陰から飛び出した。
リオスは歯を食いしばり、大地を蹴った。だが、数歩進んだだけで膝が笑い出す。息が続かない。剣が重い。視界が白く明滅する。ダメだ、体が動かない――!
その時だった。 背後から、風鈴のような、それでいて芯のある歌声が聞こえてきた。
「――Veni vente, fessis pedibus alas!(来たれ風よ、疲れた足に翼を!)」
リーナだった。彼女は走りながら、呼吸を整える代わりに古代語の歌を紡ぎ始めたのだ。それは、アスティラで扉の封印を解いた時や、リオスの毒気を浄化した時のような静謐な歌ではなく、もっと力強く、風そのものを思わせる旋律。
歌声が空気に溶け、不可視の波紋となってリオスの体を包み込む。
「……っ!?」
劇的な変化だった。 鉛のようだった足が、嘘のように軽くなった。背中にのしかかっていた『星喰の剣』の重量感が薄れ、焼けるようだった肺に清涼な空気が満ちていく。
「リーナ、これは……!」
「無駄口叩くな! 走れ!」
ゼノスの叱咤が飛ぶ。彼もまた、リーナの歌によって速度を上げていた。エリアスもローブを翻し、驚くべき速さで追従してくる。
リーナの「真律」――それは、彼らの肉体の限界を一時的に超えさせる、強化の歌だった。
四人は灼熱の荒野を、風のように疾走した。 巨大な緑の壁が、ぐんぐんと迫ってくる。木の葉のざわめきが聞こえ、森の湿った匂いが鼻腔をくすぐる距離になった。
だが同時に、背後で空気が震えるような音が響き始めた。 バサァッ、バサァッ……。巨大な翼が風を打つ音だ。 猛スピードで移動し始めた彼らの姿は、皮肉にも上空の監視者の目を引くに十分すぎたのだ。
「気づかれた! 急げ! 振り返るな!」
ゼノスの叫び声。 リオスは歌がくれた爆発的な力を、全て両足の踏み込みへと変えた。視界の端、地面に巨大な影が落ちるのが見えた。奴が急降下してきている。
あと五十メートル。三十メートル。十メートル。
「飛び込めぇ!!」
ゼノスの声と同時に、四人は滑り込むようにして、鬱蒼と茂る森の暗がりへと身を投げ出した。
直後。 彼らがつい先ほどまでいた場所を、凄まじい風圧と共に巨大な鉤爪が薙ぎ払った。舞い上がった砂埃が、森の入口を茶色く染める。
ギャアアアアッ!
獲物を逃した飛竜の、耳をつんざくような咆哮が頭上で響き渡った。
「まだだ! 止まるな、もっと奥へ!」
ゼノスが叫ぶ。ここで止まれば、上空から位置が丸わかりだ。 彼らは歌の効果が切れかかる体に鞭打ち、腐葉土に足を取られながらも、這うようにして太陽光が届かない森の深部へと入り込んだ。
巨木の根元、暗い茂みの中に身を隠したところで、ついに全員の糸が切れた。泥だらけの地面に倒れ込み、荒い息を吐く。
「……はぁ、はぁ……死ぬかと、思った……」
リオスが泥だらけの顔を上げ、隣で同じように倒れ込んでいるリーナを見た。彼女は顔面蒼白で、肩で息をしている。歌の反動だろう。
「……助かったよ、リーナ。お前のおかげだ」
リオスが声をかけると、リーナは弱々しく、だが嬉しそうに微笑んだ。 頭上では、獲物を見失った飛竜の苛立った羽音が、執拗に旋回を続けていた。
彼らはついに、上空からの脅威を退け、ウィスパーウッドの領域に足を踏み入れたのだ。
卓上の語り部でございます。
第三十九話『灼熱の逃避行、緑の壁』をお届けいたしました。
灼熱の荒野での過酷な強行軍、そしてついに捕捉されたアスティラの追手。空の精鋭部隊である飛竜騎士団『天の牙』の登場により、彼らは絶体絶命の窮地に立たされました。
その危機を救ったのは、リーナの紡いだ新たな「真律」でした。 アスティラの地下で見せた静謐な癒やしや封印解除の歌とは異なる、仲間を鼓舞し、肉体の限界を超えさせる力強い旋律。彼女のこの力がなければ、リオスたちは森の縁にたどり着く前に、空からの捕食者の餌食となっていたことでしょう。歌の反動で倒れ込む彼女の姿は、その力の代償の大きさと、彼女の覚悟を物語っています。
間一髪で空からの脅威を振り切り、彼らはウィスパーウッドの深い闇の中へと身を隠しました。 しかし、ここは人を拒む古代の森。一難去ってまた一難。彼らの前には、都市とは異なる過酷な大自然の試練が待ち受けています。
本格的なサバイバルが始まる次回の展開も、どうぞご期待ください。
ps. 物語の世界観、地図、キャラクター設定などの補足情報は、Webサイト「Table Talker's Log」にて随時更新しております。今回の旅路の確認などにもご活用ください。
https://tabletalker.info/category/avelia/
卓上の語り部より、敬具。




