第三十八話『薄明の荒野、遠き森の影』
エルドラ山脈の麓を沿うように続く荒野の夜は、長く、そして過酷だった。 ゴツゴツとした岩場と、乾燥した低木がまばらに生えるだけの荒涼とした大地。そこに吹き付ける風は、昼間の熱気を忘れさせるほどに冷たく、体力を容赦なく奪っていく。
「……はぁ、はぁ。まだ、着かねぇのか」
リオスは荒い息を吐きながら、背中の『星喰の剣』の位置を直した。疲労で感覚が麻痺しかけているが、この剣の重みだけが、今自分たちが置かれている現実を強烈に主張していた。
「ペースを落とすなよ。夜明け前が一番冷え込む。止まったら動けなくなるぞ」
先頭を歩くゼノスが、振り返りもせずに低い声で言った。彼も疲労の色は隠せないが、その足取りは一定のリズムを保っている。さすがは歴戦の傭兵といったところか。
リオスの隣では、リーナがフードを目深にかぶり、黙々と足を動かしていた。時折、足元の石に躓きそうになるが、その度に歯を食いしばって体勢を立て直す。弱音を吐かないと決めているようだった。
「……無理するなよ。辛かったら言え」
リオスが小声で声をかけると、リーナは小さく首を横に振った。
「ううん、平気。リオスこそ、その剣、重いでしょ? 私が持とうか?」
「馬鹿言え。お前が持ったら、重さで地面に埋まっちまうよ」
軽口を叩き合うことで、互いに気を紛らわせる。だが、限界が近いことは明らかだった。
「……ふむ。そろそろ潮時ですね」
最後尾を歩いていたエリアスが、東の空を見上げながら言った。 漆黒だった空の端が、白み始めている。砕かれた月の青白い光が薄れ、世界が灰色の輪郭を帯び始めていた。
「この先に、少し風を凌げそうな岩陰があります。そこで少し休憩しましょう。日が昇りきってから移動すると、空からの監視に見つかりやすくなりますから」
エリアスの提案に、誰も異論はなかった。
* * *
岩肌がオーバーハングした場所に滑り込み、四人は泥のように座り込んだ。 ゼノスが手慣れた様子で枯れ枝を集め、煙の少ない小さな焚き火を起こす。揺らめく小さな炎が、凍えた体に染み渡るような暖かさをくれた。
「……生き返るな」
リオスが焚き火に手をかざし、深く息をつく。リーナも隣で小さく体を丸め、炎の暖かさに安堵の表情を浮かべていた。
エリアスは懐中時計で時間を確認した後、地図を広げた。
「予定より少し遅れていますが、順調です。このまま山脈沿いに北上を続ければ、明日の昼頃にはウィスパーウッドの南端に到達できるでしょう」
「ウィスパーウッド……」
焚き火の爆ぜる音に混じり、リーナがぽつりと呟いた。その視線は炎に向けられているが、心はここではない場所にあるようだった。
リオスもまた、複雑な表情で夜明けの荒野を見つめた。 北の空、今はまだ薄暗がりの中だが、その先には彼らの故郷があったはずだ。
「……なあ、先生。俺たちが目指してるのは、ウィスパーウッドの『奥』なんだよな?」
リオスが確認するように尋ねると、エリアスは眼鏡の位置を直しながら頷いた。
「ええ、そうです。あなたたちの故郷である『ウィスパーウッド村』は、広大な森林地帯のほんの入り口、南東の端に位置していました。我々が目指すのは、そこからさらに森深くに入り、西へと進んだ先――人が立ち入らぬ未踏の領域です」
「そうだよな。……村があった場所なんて、今はもう見る影もねぇだろうしな」
リオスは自嘲気味に笑った。『闇の盟約者』の襲撃によって、村は廃墟と化した。皆殺しにされ、帰る場所など、もうどこにもない。あの日の惨劇が、脳裏をよぎる。
「でも……」
リーナが顔を上げ、静かに言った。
「森の匂いがする。風に乗って、懐かしい匂いが……」
彼女はフードを少しだけずらし、北から吹く風に鼻を近づけた。その表情には、悲しみと、それだけではない、何か不思議な感覚に戸惑うような色が混じっていた。
「匂い? 俺には土埃の匂いしか――」
リオスが言いかけた時、視界が急速に開けた。 東の稜線から太陽が顔を出し、強烈な朝日が荒野を照らし出したのだ。
「……! おい、見ろよ」
リオスが立ち上がり、北の方角を指差した。
朝もやの向こう、遥か北の地平線に、黒々とした巨大な帯のような影がうっすらと横たわっているのが見えた。 それは、視界の端から端までを埋め尽くす、圧倒的な質量の「森」の遠景だった。
ウィスパーウッド森林地帯。 かつて彼らが住んでいた村など、この巨大な緑の海原の前では、波打ち際の砂粒一粒に過ぎないと思い知らされるような、壮大な光景だった。
「でけぇな……。改めて見ると。あんなに遠くからでもハッキリ見えるなんて」
リオスが圧倒されたように呟く。
「ええ。あれが、古代からの秘密を抱く森です。まだ距離はありますが、目指すべき場所はあそこです」
エリアスが静かに隣に並んだ。
「さあ、休憩は終わりです。日が昇った。ここからは、隠れる場所の多いあの森の縁を目指して、一気に駆け抜けますよ」
ゼノスが焚き火を消し、砂をかけて痕跡を隠した。
四人は再び立ち上がり、歩き出す。 目の前に広がる巨大な森の影。それは彼らを拒絶しているようにも、あるいは何かを語りかけようとしているようにも見えた。
故郷の残骸を通り過ぎ、彼らは未知の領域へと足を踏み入れようとしていた。
卓上の語り部でございます。
第三十八話『薄明の荒野、遠き森の影』をお届けいたしました。
アスティラを脱出し、最初の一夜を明かしたリオスたち。肉体的な疲労もさることながら、精神的にも重い一歩となりました。
北へ向かうということは、彼らにとって故郷ウィスパーウッド村の近くを通ることを意味します。今回、リオスの口から語られた村の惨状――「闇の盟約者」による殺戮と廃墟化――は、彼らが背負っている過去と、旅の動機の重さを改めて浮き彫りにしました。
そして、夜明けと共に姿を現した、遥か彼方の巨大な森の影。 かつて自分たちが住んでいた場所さえも飲み込んでしまうような圧倒的な質量は、これから彼らが踏み込もうとしている領域の深淵さを物語っています。
故郷の残骸を通り過ぎ、そのさらに奥、未知の領域へ。 彼らの旅は、いよいよ本格的なサバイバルへと突入していきます。
P.S. 作中に登場する地図や、アヴェリアの世界設定に関する補足情報は、Webサイト「Table Talker's Log」にて随時更新しております。物語をより深く楽しむ一助となれば幸いです。
https://tabletalker.info/category/avelia/
次回もどうぞお楽しみに。 卓上の語り部より、敬具。




