第三十七話『荒野の風、北への第一歩』
背後で瞬いていた王都アスティラの灯りが、いつの間にか遠ざかっていた。 代わりに周囲を包み込むのは、土と岩の乾いた匂いと、肌を刺すような冷たい夜風だけだ。
「……よし。とりあえず、ここまで離れれば追手の心配は薄いだろう」
先頭を歩いていたゼノスが足を止め、振り返った。その表情はいつも通りの落ち着き払ったものだが、額にはうっすらと汗が滲んでいる。
リオスはその場に膝をつき、大きく息を吐き出した。
「はぁ、はぁ……。キツかったぜ。まさか、生き埋めになりかけた直後に、こんなマラソンをする羽目になるとはな」
背中の『星喰の剣』は、今は鞘の中で静かに眠っている。だが、地下空洞で解き放った時の禍々しい感覚は、まだ手のひらに生々しく残っていた。
「ええ……。ですが、立ち止まっている暇はありませんよ」
エリアスが懐中時計を確認し、月明かりを頼りに地図を広げた。
「現在地は王都の北、エルドラ山脈の麓へと続く荒野の入り口です。まずはこのまま山脈沿いに北上します」
「北西の『始原の森』を目指すんじゃないのか? 北じゃ方角が違うだろ」
リオスが疑問を口にする。エリアスは地図上の平原部分を指でなぞった。
「最短距離である北西のレムリア平原を横断するルートは、見晴らしが良すぎて危険です。鉄機隊や『盟約者』の目が光っているでしょう。ですから、遠回りにはなりますが、山脈沿いの荒れた土地を隠れながら進み、まずはウィスパーウッドを目指します」
「ウィスパーウッド……か」
リオスが複雑な表情で呟く。そこは彼とリーナの故郷の名でもあった。
「皮肉なもんだな。まさか、こんな形で故郷の近くを通ることになるとは」
「リオス君たちの村は、広大なウィスパーウッド森林地帯の南東の端でしたね。我々が目指すのは、森に入ってからさらに西、人が立ち入らぬ深奥部です。とはいえ、森に入れば追手の目も欺きやすくなるでしょう」
「へえ。まともな道は歩かせてもらえないってわけか。優雅な旅とは縁遠いな」
ゼノスが肩をすくめ、腰のポーチから干し肉を取り出した。それをナイフで四等分し、全員に投げて寄越す。
「食っとけ。これからは補給もままならん。口にできる時に少しでも腹に入れておくのが、長生きのコツだ」
リオスは受け取った硬い肉を齧りながら、隣に座り込んだリーナを見た。彼女は膝を抱え、遠くの北の空を見つめている。その視線の先には、頭上の砕かれた月が青白い光を投げかけていた。
「リーナ、大丈夫か? 足、痛くないか?」
「うん、平気。……ありがとう、リオス」
リーナは小さく首を横に振った。だが、その声には元気がなく、身体が小刻みに震えているのが分かった。
「……まだ、あいつのことが気になってるのか? あのリリィとかいう……」
リオスが尋ねると、リーナはビクリと肩を震わせ、ゆっくりと頷いた。
「あの女の子の目……。底が見えなくて、真っ暗で……。まるで、深い井戸の底を覗き込んだみたいだった。私たちが逃げ出したことすら、楽しんでいるような……」
古代エルフの血を遠くに引く彼女の鋭敏な感覚が、リリィという存在の本質的な異常さを捉えていたのだろう。それは、力で圧倒してくるバルギスのような敵とは違う、精神を直接撫でてくるような恐怖だった。
リオスは食べかけの干し肉を強く握りしめた。
「ああ。俺も同感だ。あいつは、わざと俺たちを泳がせた。……次は、確実に仕留めるつもりで来る」
脳裏に、崩落する瓦礫の山で浮かべていた、あの歪な笑顔が蘇る。 『星喰の剣』の力を面白がり、それごと自分を壊そうとする、純粋な悪意。
「だが、だからこそ立ち止まれねぇ。あんな化け物がうようよいる組織が相手なんだ。俺たちが生き残るには、強くなるしかねぇんだよ」
リオスは立ち上がり、リーナに手を差し出した。
「行こう、リーナ。始原の森へ。『やり方』と『鍵』を手に入れて、俺たちの力を完全に使いこなせるようになるために」
リーナはリオスの顔を見上げ、少しだけ躊躇した後、その手を取った。
「……うん。そうだね。私、自分の力のことも、もっと知りたい。この力が、みんなを守るためにあるのなら……」
彼女の瞳に、微かだが確かな意志の光が戻る。
「良い心がけだ。恐怖は生存本能だが、それに食われちゃいけない。利用するんだ」
ゼノスが満足げに頷き、再び歩き出した。
「さあ、夜が明ける前にもう少し距離を稼ぐぞ。まずは北の森へ。そして西の聖域へ。長い道のりだ」
四つの影が、再び荒野を北へと移動し始める。 右手にはエルドラ山脈の険しい稜線が黒々と横たわり、足元は岩や乾いた低木が彼らの行く手を阻む。冷たい風が吹き荒れ、砕かれた月の光が奇妙な影を地面に落としていた。
王都での戦いは、彼らにとって一つの通過点に過ぎなかった。 世界の真実――「律動」と「虚ろ」、そしてそれを利用しようとする「闇の盟約者」の存在を知った今、彼らはもはや後戻りできない場所に立っている。
リオスは背中の剣の重みを感じながら、前を見据えた。 その視線の先、遥か彼方の闇の中に、懐かしくも広大な森の幻影が見えた気がした。
(待ってろよ、始原の森。俺たちが生きるための鍵、必ず手に入れてやる)
荒野の風が、彼らの決意を試すように強く吹き抜けていった。
卓上の語り部でございます。
第三十七話『荒野の風、北への第一歩』をお届けいたしました。
これにて、長きにわたるアスティラ潜伏・脱出劇は完全に幕を閉じ、物語は新たな局面へと移行します。
今回の話では、リオスたちが当面の目的地を「北のウィスパーウッド」と定め、そこを経由して最終目的地である「西の始原の森(聖域の大樹)」を目指すという、具体的なルートが示されました。 このルート選択は、追手の目を欺くための戦略的な判断であると同時に、リオスとリーナにとっては、図らずも故郷の近くを通るという、運命的な意味合いも帯びています。
広大な荒野を北上する過酷な旅路。その中で、リリィという底知れぬ脅威への恐怖を抱えながらも、前に進もうとする四人の決意が描かれました。特に、恐怖に震えながらもリオスの手を取ったリーナの姿は、彼女の精神的な成長の第一歩と言えるでしょう。
都市の喧騒を離れ、彼らは未知の領域へと足を踏み入れます。 砕かれた月が見下ろす世界で、この先にどのような試練が待ち受けているのか。彼らの旅はまだ始まったばかりです。
新章の本格的な開幕を、どうぞ楽しみにお待ちください。
P.S. 作中に登場する地図や、アヴェリアの世界設定に関する補足情報は、Webサイト「Table Talker's Log」にて随時更新しております。今回の旅路の確認などにもご活用ください。
https://tabletalker.info/category/avelia/
卓上の語り部より、敬具。




